茂木健一郎
一体、因果的に閉じているにもかかわらず、自由意志が存在するとはどういうことか? この「両立説」の帰趨を明らかにすることは、心脳問題の核心を解き明かすことに等しい。
自分自身が自由であると感じることも、また一つの「クオリア」である。私たちは、自分がどれくらい「自由」であるか、自らメタ認知を通して把握することができる。脳の前頭前野を中心とするネットワークが、自分自身が置かれた状況と、自分自身が持つ資源を勘案して、今、どれくらい自由に自分が振る舞うことができるか、モニタしているのである。その程度によって、行為の選択肢も変わってくる。
アンリ・ベルクソンは、意識の中における時間の流れを記述する根本概念として「持続」(duration)を置き、その本質と自由意志とを結びつけた(Henri Bergson. (1889) Time and Free Will: An Essay on the Immediate Data of Consciousness. Essai sur les données immédiates de la conscience. )。ここに、「持続」は時計で測れるような物理的時間ではなく、私たちの主観的経験の中で把握される「時間」の根本的な性質である。
Henri Bergson (1859-1941)
今日、私たちは「時間」を数直線のような空間的概念の下で把握し、理解しようとする。しかし、「持続」を本質とする時間を、空間的なメタファーで把握することに、ベルクソンは異議を唱えた。そして、「持続」の現象学的本質に向き合わなければ、「自由意志」は成り立たないと主張したのである。
時間を数直線のような空間的概念においてとらえることの限界は、時空間及びその中でのダイナミクスの幾何学化を推進し、大成功を修めたアルベルト・アインシュタインも認めていた。アインシュタインは、自らの創始した4次元の時空間の中で、「今」(now)が何ら特別な意味も持たないということについて、懸念を表明していたのである。
私たちの経験に照らして明らかなように、「今」(specious present, William James (1890), The Principles of Psychology, New York: Henry Holt.)は時間の流れの中で特別な意味を持つ。「今」の中で、私たちは判断し、選択し、行動する。意識に直接与えられているものは、常に「今」であり、「過去」や「未来」は、「今」という「持続」の中で立ち上がる志向性を通して、私たちの意識に把握されるに過ぎない。このような、「今」の特別な性質に準拠しなければ、自由意志の本質は扱えない。
「今」や「持続」の性質については、後に心理的時間の起源を考える際に、より詳細にわたって検討することとしよう。
Monday, 2 January 2012
自由意志の両立説
茂木健一郎
意識(consciousness)が生まれてきた、進化論的な必然性とは何か? 以下に述べる理由によって、「自由意志」(free will)こそが、意識の進化論的な意義の中心にあると考えられる。
クオリアや、志向性といった意識の持つ現象学的な性質は、もっとも顕著な属性だとは言えるが、それ自体が進化における直接的な拘束条件とまでは言えない。自由意志が、意識の進化論的な意義において革新的な役割を持つという議論は、意識が「随伴現象」(epiphenomenon)であるという論とは独立である。鍵は、むしろ、私たち生物が置かれた客観的な状況の中にある。
意識もまた、それが私たちの生物としての振る舞いにかかわる現象である以上、自然淘汰における何らかの適応度(fitness)に貢献するものでなければならない。ここに、適応度は、遺伝子の進化論から見た狭義の立場からは、その個体が残した子孫を指すけれども(Haldane 1924)、実際にはそこに至るさまざまな階層の適応度が存在する。
生物が、ある環境に置かれたときに、その状況をどれくらい適切に認識し、しなやかに行動できるか。人間におけるような豊かな意識体験を生み出すに至る生物の生活履歴(life history)は、「今、ここ」における行動選択の連続である。その現場における「自由度」が、最終的に適応度に貢献することになる。
どんな環境に置かれても、いつも同じ行動をする生物は適応度が低い。与えられた環境の下で、さまざまな環境因子を統合、勘案して自らの行動を柔軟に選択できる生物は、適応度が高い。問題は、意識を持つことが、この適応度の進化にどのように資するかという点にある。
人間の脳を含めた身体の動きは、因果的法則によって決定されている。これが、今日の自然科学がとる基本的な立場である。もちろん、少数自由度の古典力学の範疇で見られる決定論的カオスや、量子力学における不確実性などの留保はあるにせよ、因果的決定論が基本的には成立するという世界観に今のところ揺るぎはない。
一部の論者(Eccles 1994)は、意識が物理的な存在としての脳をコントロールしているという仮説を提出している。しかし、このような世界像には、エネルギーの保存則や、物理的世界観における基本的な前提である「因果的閉包性」(causal closure)などの点から見た困難があり、広く受け入れられるには至っていない。
以下では、自由意志(free will)が、因果的平包性や因果的決定論の過程と両立するという両立説(compatibility theory)の下で、意識の機能的意義を検討しよう。両立説は、自由意志の性質に関する現代の「通説」であり、経験的事実との整合性も高い。一方で、両立説をとることは、意識をめぐる難しい問題(hard problem)が存在することを否定するものではない。
現代的な意味における両立説の淵源は、古代ギリシャのストア派の哲学者たち(ゼノンやセネカなど)、トマス・ホッブズ(1588-1679)、デイヴィッド・ヒューム(1711-1776)、らの論の中に求めることができる。ストア派の哲学者たちは、運命を受け入れる「覚悟」を説く一方で、自由意志に基づく運命の改変の可能性にも言及した。トマス・ホッブズは、1656年に出版されたThe questions concerning liberty, necessity, and chanceの中で、偶然と必然、そして自由の関係について論じた。デイヴィッド・ヒュームは、世の中の一般の事象が法則に従うことを認めた上で、人間の行動が、単なる偶然ではなく、「実行するかそれとも止めるか」の判断にかかわる「必然性」に基づく場合にのみ、それは「自由」と言えるという論を展開したのである。
意識(consciousness)が生まれてきた、進化論的な必然性とは何か? 以下に述べる理由によって、「自由意志」(free will)こそが、意識の進化論的な意義の中心にあると考えられる。
クオリアや、志向性といった意識の持つ現象学的な性質は、もっとも顕著な属性だとは言えるが、それ自体が進化における直接的な拘束条件とまでは言えない。自由意志が、意識の進化論的な意義において革新的な役割を持つという議論は、意識が「随伴現象」(epiphenomenon)であるという論とは独立である。鍵は、むしろ、私たち生物が置かれた客観的な状況の中にある。
意識もまた、それが私たちの生物としての振る舞いにかかわる現象である以上、自然淘汰における何らかの適応度(fitness)に貢献するものでなければならない。ここに、適応度は、遺伝子の進化論から見た狭義の立場からは、その個体が残した子孫を指すけれども(Haldane 1924)、実際にはそこに至るさまざまな階層の適応度が存在する。
生物が、ある環境に置かれたときに、その状況をどれくらい適切に認識し、しなやかに行動できるか。人間におけるような豊かな意識体験を生み出すに至る生物の生活履歴(life history)は、「今、ここ」における行動選択の連続である。その現場における「自由度」が、最終的に適応度に貢献することになる。
どんな環境に置かれても、いつも同じ行動をする生物は適応度が低い。与えられた環境の下で、さまざまな環境因子を統合、勘案して自らの行動を柔軟に選択できる生物は、適応度が高い。問題は、意識を持つことが、この適応度の進化にどのように資するかという点にある。
人間の脳を含めた身体の動きは、因果的法則によって決定されている。これが、今日の自然科学がとる基本的な立場である。もちろん、少数自由度の古典力学の範疇で見られる決定論的カオスや、量子力学における不確実性などの留保はあるにせよ、因果的決定論が基本的には成立するという世界観に今のところ揺るぎはない。
一部の論者(Eccles 1994)は、意識が物理的な存在としての脳をコントロールしているという仮説を提出している。しかし、このような世界像には、エネルギーの保存則や、物理的世界観における基本的な前提である「因果的閉包性」(causal closure)などの点から見た困難があり、広く受け入れられるには至っていない。
以下では、自由意志(free will)が、因果的平包性や因果的決定論の過程と両立するという両立説(compatibility theory)の下で、意識の機能的意義を検討しよう。両立説は、自由意志の性質に関する現代の「通説」であり、経験的事実との整合性も高い。一方で、両立説をとることは、意識をめぐる難しい問題(hard problem)が存在することを否定するものではない。
現代的な意味における両立説の淵源は、古代ギリシャのストア派の哲学者たち(ゼノンやセネカなど)、トマス・ホッブズ(1588-1679)、デイヴィッド・ヒューム(1711-1776)、らの論の中に求めることができる。ストア派の哲学者たちは、運命を受け入れる「覚悟」を説く一方で、自由意志に基づく運命の改変の可能性にも言及した。トマス・ホッブズは、1656年に出版されたThe questions concerning liberty, necessity, and chanceの中で、偶然と必然、そして自由の関係について論じた。デイヴィッド・ヒュームは、世の中の一般の事象が法則に従うことを認めた上で、人間の行動が、単なる偶然ではなく、「実行するかそれとも止めるか」の判断にかかわる「必然性」に基づく場合にのみ、それは「自由」と言えるという論を展開したのである。
Saturday, 31 December 2011
意識は機械的情報処理に対して後付の解釈をする機械的情報処理か?
茂木の言う拒否権を担う脳活動自体は、無意識の準備段階を持たないという事か? (他の脳活動は、この無意識の準備段階を持つにもかかわらず。)
ぽよは、意識の脳活動は、無意識の自動機械的情報処理に対して後付の解釈をしているだけだと思うのだが。
事実関係を確認すると、ぽよがchange blindnessのMEGを計測したとき、回答を発見する1秒前のフレームまでの脳活動を、フェイクで2枚の画像を同じものにしておいた場合の活動と比較すると、楔前部や帯状回後部の活動が起こらない点が違っていた。つまり、awarenessが期待される時、楔前部や帯状回後部に活動が生じるのである。これは、網膜残像の違い検出とは異なる。もしそうであれば、2枚の画像の交互提示を始めた直後でも、この違い検出が起こるはずだからだ。発見の直前であり、かつまだawarenessが生じていないと思われる1秒前のフレームであることが重要なのだ。これを見ると、発見等、殆どの思考活動において、awarenessの出現に先立って脳活動が起こるという点は間違いないと思う。
これを確かめた後、回答を発見したときの脳活動を調べると、楔前部や帯状回後部に加えて、帯状回前部、前頭前野に活動が現れることが分かった。ところが、発見が意識に上った時にだけ現れる帯状回前部、前頭前野などの活動の時刻はボタン押しと同時か、数十ミリ秒程度ボタン押しより遅くなる。これを見ると、拒否をしたくても間に合わないように思うのだ。
ぽよにとっては、むしろ、「(何かをきっかけにして)意識に上ってしまう」という事自体が、抗う事の出来ない機械的自動処理であるように見える点が、「これでいいのか?」と思ってしまう点だ。「特定の情報処理に、特定の意識がへばり付いている」なんて安易な事を言っても、分かったような気がしない。コンピューターのプログラムに特定の意識がへばり付いているのを見たことが無いからだ。機械的情報処理の中の、一体どこからawarenessが生まれてくるのか?
ぽよは、意識の脳活動は、無意識の自動機械的情報処理に対して後付の解釈をしているだけだと思うのだが。
事実関係を確認すると、ぽよがchange blindnessのMEGを計測したとき、回答を発見する1秒前のフレームまでの脳活動を、フェイクで2枚の画像を同じものにしておいた場合の活動と比較すると、楔前部や帯状回後部の活動が起こらない点が違っていた。つまり、awarenessが期待される時、楔前部や帯状回後部に活動が生じるのである。これは、網膜残像の違い検出とは異なる。もしそうであれば、2枚の画像の交互提示を始めた直後でも、この違い検出が起こるはずだからだ。発見の直前であり、かつまだawarenessが生じていないと思われる1秒前のフレームであることが重要なのだ。これを見ると、発見等、殆どの思考活動において、awarenessの出現に先立って脳活動が起こるという点は間違いないと思う。
これを確かめた後、回答を発見したときの脳活動を調べると、楔前部や帯状回後部に加えて、帯状回前部、前頭前野に活動が現れることが分かった。ところが、発見が意識に上った時にだけ現れる帯状回前部、前頭前野などの活動の時刻はボタン押しと同時か、数十ミリ秒程度ボタン押しより遅くなる。これを見ると、拒否をしたくても間に合わないように思うのだ。
ぽよにとっては、むしろ、「(何かをきっかけにして)意識に上ってしまう」という事自体が、抗う事の出来ない機械的自動処理であるように見える点が、「これでいいのか?」と思ってしまう点だ。「特定の情報処理に、特定の意識がへばり付いている」なんて安易な事を言っても、分かったような気がしない。コンピューターのプログラムに特定の意識がへばり付いているのを見たことが無いからだ。機械的情報処理の中の、一体どこからawarenessが生まれてくるのか?
複数の声、増田健史氏
このブログ(To The River)は、心脳問題に関心を持つ論者たちによる「語り場」です。鍵となるのは、「複数の声」(multiple voice)。それぞれの文章は、それぞれの筆者の才覚と責任において記されます。文章の著作権はそれぞれの著者にあり、それをどう扱おうと自由です。
私の場合、ここには、現在筑摩書房の増田健史さんの編集によって書き進めている「クオリア」と「自由意志」に関する本の文章を少しずつ出していきたいと思っています。本書は、私にとって、心脳問題についての数年ぶりの本格的論考となります。乞うご期待!
増田健史氏
私の場合、ここには、現在筑摩書房の増田健史さんの編集によって書き進めている「クオリア」と「自由意志」に関する本の文章を少しずつ出していきたいと思っています。本書は、私にとって、心脳問題についての数年ぶりの本格的論考となります。乞うご期待!
増田健史氏
「意識の拒否権仮説」
茂木健一郎
リベットを始めとする、多くの人の実験によれば、脳は、随意運動を起こすよりも前に(条件によって異なるが、典型的には一秒程度)、すでに準備の活動を始めている。この出発点は測定の精度によって異なるので、部分的にでも因果関係のある活動は、もっと先に始まっている可能性が高い。
そして、典型的には運動開始の0.2秒程度前に、「私」の「意識」が、自分が起こそうとしている運動の所在に気づく。つまり、随意運動の準備は、無意識のうちにすでに始まっている。そのプロセスがある程度進み、いよいよ最終的な実行段階になるその直前に、意識が介入して、実行するかどうか決めるのである。
自由意志(free will)との関連性で言えば、意識の第一の役割は、「拒否権」(veto)の発動であるということになる。意識は、随意運動をゼロから立ち上げるのではない。むしろ、ほとんどの準備は無意識のうちに行っていて、しかる後に最後の段階で意識が拒否権を持って介入する。つまり、意識の機能は、消極的なものであると言って良い。
意識の役割を、このようにとらえる説を、以下では「意識の拒否権仮説」(veto theory of consciousness)と呼ぼう。
随意運動における意識の役割がこのような設計になっていることには、合理性がある。スポーツをやっている時のように、一連の随意運動が連動して続いていく時には、特段の事情がない限り意識が介入しない方がスムーズに行く。特に、チクセントミハイの言うフロー状態(Csíkszentmihályi 1996)においてはそうである。
リベットを始めとする、多くの人の実験によれば、脳は、随意運動を起こすよりも前に(条件によって異なるが、典型的には一秒程度)、すでに準備の活動を始めている。この出発点は測定の精度によって異なるので、部分的にでも因果関係のある活動は、もっと先に始まっている可能性が高い。
そして、典型的には運動開始の0.2秒程度前に、「私」の「意識」が、自分が起こそうとしている運動の所在に気づく。つまり、随意運動の準備は、無意識のうちにすでに始まっている。そのプロセスがある程度進み、いよいよ最終的な実行段階になるその直前に、意識が介入して、実行するかどうか決めるのである。
自由意志(free will)との関連性で言えば、意識の第一の役割は、「拒否権」(veto)の発動であるということになる。意識は、随意運動をゼロから立ち上げるのではない。むしろ、ほとんどの準備は無意識のうちに行っていて、しかる後に最後の段階で意識が拒否権を持って介入する。つまり、意識の機能は、消極的なものであると言って良い。
意識の役割を、このようにとらえる説を、以下では「意識の拒否権仮説」(veto theory of consciousness)と呼ぼう。
随意運動における意識の役割がこのような設計になっていることには、合理性がある。スポーツをやっている時のように、一連の随意運動が連動して続いていく時には、特段の事情がない限り意識が介入しない方がスムーズに行く。特に、チクセントミハイの言うフロー状態(Csíkszentmihályi 1996)においてはそうである。
心脳問題
このブログは、複数の論者によって、心脳問題を議論する「語り場」です。
ブログ名「To The River」は、イギリスのケンブリッジ大学のトリニティカレッジの近くに書かれた、川の方向を示す壁の上の文字に由来しています。
ブログ名「To The River」は、イギリスのケンブリッジ大学のトリニティカレッジの近くに書かれた、川の方向を示す壁の上の文字に由来しています。
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