Monday 2 January 2012

自由意志の両立説

茂木健一郎

 意識(consciousness)が生まれてきた、進化論的な必然性とは何か? 以下に述べる理由によって、「自由意志」(free will)こそが、意識の進化論的な意義の中心にあると考えられる。

 クオリアや、志向性といった意識の持つ現象学的な性質は、もっとも顕著な属性だとは言えるが、それ自体が進化における直接的な拘束条件とまでは言えない。自由意志が、意識の進化論的な意義において革新的な役割を持つという議論は、意識が「随伴現象」(epiphenomenon)であるという論とは独立である。鍵は、むしろ、私たち生物が置かれた客観的な状況の中にある。

 意識もまた、それが私たちの生物としての振る舞いにかかわる現象である以上、自然淘汰における何らかの適応度(fitness)に貢献するものでなければならない。ここに、適応度は、遺伝子の進化論から見た狭義の立場からは、その個体が残した子孫を指すけれども(Haldane 1924)、実際にはそこに至るさまざまな階層の適応度が存在する。

 生物が、ある環境に置かれたときに、その状況をどれくらい適切に認識し、しなやかに行動できるか。人間におけるような豊かな意識体験を生み出すに至る生物の生活履歴(life history)は、「今、ここ」における行動選択の連続である。その現場における「自由度」が、最終的に適応度に貢献することになる。

 どんな環境に置かれても、いつも同じ行動をする生物は適応度が低い。与えられた環境の下で、さまざまな環境因子を統合、勘案して自らの行動を柔軟に選択できる生物は、適応度が高い。問題は、意識を持つことが、この適応度の進化にどのように資するかという点にある。

 人間の脳を含めた身体の動きは、因果的法則によって決定されている。これが、今日の自然科学がとる基本的な立場である。もちろん、少数自由度の古典力学の範疇で見られる決定論的カオスや、量子力学における不確実性などの留保はあるにせよ、因果的決定論が基本的には成立するという世界観に今のところ揺るぎはない。

 一部の論者(Eccles 1994)は、意識が物理的な存在としての脳をコントロールしているという仮説を提出している。しかし、このような世界像には、エネルギーの保存則や、物理的世界観における基本的な前提である「因果的閉包性」(causal closure)などの点から見た困難があり、広く受け入れられるには至っていない。

 以下では、自由意志(free will)が、因果的平包性や因果的決定論の過程と両立するという両立説(compatibility theory)の下で、意識の機能的意義を検討しよう。両立説は、自由意志の性質に関する現代の「通説」であり、経験的事実との整合性も高い。一方で、両立説をとることは、意識をめぐる難しい問題(hard problem)が存在することを否定するものではない。

 現代的な意味における両立説の淵源は、古代ギリシャのストア派の哲学者たち(ゼノンやセネカなど)、トマス・ホッブズ(1588-1679)、デイヴィッド・ヒューム(1711-1776)、らの論の中に求めることができる。ストア派の哲学者たちは、運命を受け入れる「覚悟」を説く一方で、自由意志に基づく運命の改変の可能性にも言及した。トマス・ホッブズは、1656年に出版されたThe questions concerning liberty, necessity, and chanceの中で、偶然と必然、そして自由の関係について論じた。デイヴィッド・ヒュームは、世の中の一般の事象が法則に従うことを認めた上で、人間の行動が、単なる偶然ではなく、「実行するかそれとも止めるか」の判断にかかわる「必然性」に基づく場合にのみ、それは「自由」と言えるという論を展開したのである。

4 comments:

  1. 因果関係と自由意志の両立とは、以下のような意味か?

    A→B→Cの時間順で各事象が起こったとして、A⇒BとA⇒Cという因果関係があったとき、Aから決定論的にBとCは生じるが、BとCは因果的に結ばれてはいない、つまり自由。

    過去(上の例ではA)によって宿命づけられていて必ず起こるという意味では自由ではないが、与えられた選択要求の内容(上の例ではB)に束縛されていないという意味で自由だということか? 言い換えれば、自由意志の「自由」は、過去全体に対して自由と言う意味ではなく、直前に与えられた選択要求の内容に対しての自由だという意味か?

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  2. 自由意志の自由が何に対する自由か、という問いはおもしろいと思います。
    エラスムスの自由意志は、神や信仰に対して、人間性の擁護として、ヒュームは、因果法則や実体の客観性に対して、「今、ここにおける行動選択の連続」を習慣とよんで、知覚や悟性に光を当てました。

    わたしが哲学科の学生だったころ、いちばん窒息しそうだったのは、やはり今残っているような哲学的な文献は、たいてい、何かに対する反論として登場してきていること。そして、強烈な排他性をもっていることでした。

    両立説は、茂木先生のいわれる「育む」哲学を「自由に」すすめるうえで、とりうる態度として健康だと思います。たとえば因果と意志を対立させるより、併用したほうがうまく説明がつくことも多いのではないかと…

    生活履歴 life history は心惹かれる用語ですね。習慣といわれるよりぴんときます。

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  3. 難しいことはわかりませんが、人のありようが最初から決定づけられていると言われると安心しますが、様々なことに諦めもでるような気がします。
     人生(客観的にいえば単なる偶然に生まれた瞬間の生命ですが)は自分で創れると思いたいですね。でも人生ままならぬことが多いので両立説が柔らかくていい感じです。
     このような不謹慎なことを書くと先生方にお叱りを受けそうですが・・。(笑、涙)

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  4. twitterでは別の事をかいたけど、別仮説を書いてみる。[サイコロは振られておらず全て決定論にのっている]というもの。
    [記憶を思い出すかどうか]が全て決定論にのっているという仮説。(実は本質では同じ事を言っている。)[多くの記憶が閾値を超えて連想される時、決定論にのっていて本人にはコントロールできない。]一方本人にはエピソード記憶から意志を決めている実感がありありと有ると思う。

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