Saturday 31 December 2011

意識は機械的情報処理に対して後付の解釈をする機械的情報処理か?

茂木の言う拒否権を担う脳活動自体は、無意識の準備段階を持たないという事か? (他の脳活動は、この無意識の準備段階を持つにもかかわらず。)
ぽよは、意識の脳活動は、無意識の自動機械的情報処理に対して後付の解釈をしているだけだと思うのだが。

事実関係を確認すると、ぽよがchange blindnessのMEGを計測したとき、回答を発見する1秒前のフレームまでの脳活動を、フェイクで2枚の画像を同じものにしておいた場合の活動と比較すると、楔前部や帯状回後部の活動が起こらない点が違っていた。つまり、awarenessが期待される時、楔前部や帯状回後部に活動が生じるのである。これは、網膜残像の違い検出とは異なる。もしそうであれば、2枚の画像の交互提示を始めた直後でも、この違い検出が起こるはずだからだ。発見の直前であり、かつまだawarenessが生じていないと思われる1秒前のフレームであることが重要なのだ。これを見ると、発見等、殆どの思考活動において、awarenessの出現に先立って脳活動が起こるという点は間違いないと思う。

これを確かめた後、回答を発見したときの脳活動を調べると、楔前部や帯状回後部に加えて、帯状回前部、前頭前野に活動が現れることが分かった。ところが、発見が意識に上った時にだけ現れる帯状回前部、前頭前野などの活動の時刻はボタン押しと同時か、数十ミリ秒程度ボタン押しより遅くなる。これを見ると、拒否をしたくても間に合わないように思うのだ。

ぽよにとっては、むしろ、「(何かをきっかけにして)意識に上ってしまう」という事自体が、抗う事の出来ない機械的自動処理であるように見える点が、「これでいいのか?」と思ってしまう点だ。「特定の情報処理に、特定の意識がへばり付いている」なんて安易な事を言っても、分かったような気がしない。コンピューターのプログラムに特定の意識がへばり付いているのを見たことが無いからだ。機械的情報処理の中の、一体どこからawarenessが生まれてくるのか?

複数の声、増田健史氏

このブログ(To The River)は、心脳問題に関心を持つ論者たちによる「語り場」です。鍵となるのは、「複数の声」(multiple voice)。それぞれの文章は、それぞれの筆者の才覚と責任において記されます。文章の著作権はそれぞれの著者にあり、それをどう扱おうと自由です。

私の場合、ここには、現在筑摩書房の増田健史さんの編集によって書き進めている「クオリア」と「自由意志」に関する本の文章を少しずつ出していきたいと思っています。本書は、私にとって、心脳問題についての数年ぶりの本格的論考となります。乞うご期待!


増田健史氏

「意識の拒否権仮説」

茂木健一郎

 リベットを始めとする、多くの人の実験によれば、脳は、随意運動を起こすよりも前に(条件によって異なるが、典型的には一秒程度)、すでに準備の活動を始めている。この出発点は測定の精度によって異なるので、部分的にでも因果関係のある活動は、もっと先に始まっている可能性が高い。

 そして、典型的には運動開始の0.2秒程度前に、「私」の「意識」が、自分が起こそうとしている運動の所在に気づく。つまり、随意運動の準備は、無意識のうちにすでに始まっている。そのプロセスがある程度進み、いよいよ最終的な実行段階になるその直前に、意識が介入して、実行するかどうか決めるのである。

 自由意志(free will)との関連性で言えば、意識の第一の役割は、「拒否権」(veto)の発動であるということになる。意識は、随意運動をゼロから立ち上げるのではない。むしろ、ほとんどの準備は無意識のうちに行っていて、しかる後に最後の段階で意識が拒否権を持って介入する。つまり、意識の機能は、消極的なものであると言って良い。

 意識の役割を、このようにとらえる説を、以下では「意識の拒否権仮説」(veto theory of consciousness)と呼ぼう。

 随意運動における意識の役割がこのような設計になっていることには、合理性がある。スポーツをやっている時のように、一連の随意運動が連動して続いていく時には、特段の事情がない限り意識が介入しない方がスムーズに行く。特に、チクセントミハイの言うフロー状態(Csíkszentmihályi 1996)においてはそうである。

心脳問題

このブログは、複数の論者によって、心脳問題を議論する「語り場」です。

ブログ名「To The River」は、イギリスのケンブリッジ大学のトリニティカレッジの近くに書かれた、川の方向を示す壁の上の文字に由来しています。