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Wednesday, 25 January 2012

心脳問題のためのリポート課題

本記事では、ぽよの脳科学関連の授業で用いたリポート問題を紹介したい。

 
以下の問題のテーマの中から、一つ以上の問題を選び、最初の200文字程度の段落で、結論を明示 し、その根拠を示す実験結果を列挙しなさい。
 
  1. 念力の存在(自然界と相互作用を持つように見える心)
  2. 自分の正体
  3. 記述されたものと、実体との違いとはなんなのだろうか?
  4. 存在しているのは世界か? それとも心か?一番外側にあるのは、どちらか? 
  5. 脳だけでよいのか?
  6. 意思の自由性と決定論的に見える世界。共存できるのか、それとも、どちらかが間違っているのか?
1.念力の存在(自然界と相互作用を持つように見える心)

物理学的事実の確認

  • 全ての物質は(脳も) 、原子、或いは素粒子からできている。
  • 粒子であれば、運動を計算することで、未来の位置や速度を予測できる。
  • つまり、未来は、宿命付けられており、知性に見える脳の振る舞いも、タダの原子の機械的運動に過ぎない(。。。ように見える。(実は、ちょっと端折った))。
では、心は、物質に作用することができるのだろうか?
⇒ 要するに「念力はあるか?」という問い。
そんなバカな!
本当に、そう思いますか?

ヒトは自分の意思で体を動かす時、「体」という原子が集まって作られた「物質」を動かしている。
イオンチャンネルへのイオンの出入りを引き起こす元になる力は何?
  • ヒトが手を上げたのは、手に関する運動野が活動したからだ。
  • 手に関する運動野が活動するとは、そこのニューロンにNaイオンが流入し、Kイオンが流出するという現象が繰り返し起こるということ。
  • この「物質現象」を引き起こしたのは、あなたの心ではないのか?
「この物質現象を、あなたの心が引き起こした。」
問:これは、念力と違うのか?違うとすれば、何故か?
 
2.自分の正体
 



じゃあ、外界が脳の中の何に対応しているのか考えてみよう。(特に「色」は何に対応している?)
 

問: 何が、視覚入力を見ているのだろうか?

3.記述されたものと、実体との違いとはなんなのだろうか?
PC内の各部品の仕組みを理解しても。。。
  • Excelの機能は分からない。
  • ワードの機能も分からない。
  •  (ノイマン型コンピューターの仕組みを理解したとしてもだめ。)
ダメダメ尽くし
  • 赤に応答する場所があるというだけではダメ。
  • 赤錐体から情報が投射しているという事実だけではだめ。
  • V4(色のセンター)の位置にも意味が無い。
  •   (臨床上は、当然意味がある)
  • 全ての部品の役割が分かってもダメ。
情報記述に内容は無い
  • 情報の記述の為の方法は任意であった
  例:
        赤=red=0xFF0000=16711680
         =V4の赤ニューロンの活動
         =TVの赤蛍光体の発光
 
脳活動によって生まれる素朴なものたちを科学的に理解する
  脳活動によって生まれる素朴なものたちの例
     クオリア、意味、理解
  「情報の記述を読み解く脳の中にある」で済ませてはいけない。
 
問:記述と記述されたものとの違いとは何なのだろうか?
 
4.存在しているのは世界か? それとも心か?一番外側にあるのは、どちらか? 
 
単に、「入力が無いからだ」では答えにならない。

問:存在しているのは世界か? それとも心か?一番外側にあるのは、どちらか? 
 
5.脳だけでよいのか?
 
脳の機能は、ニューロンへの入力の場所に依っているわけではない。
 
 
脳の機能は、入出力がある事に依っているのではない。つまり、身体性を表現する情報処理は必要であるが、身体が必要だという分けではない。
 
6.意思の自由性と決定論的に見える世界。共存できるのか、それとも、どちらかが間違っているのか?
 
これについては、『「時間」の事が分からないから、自由意志も分からなくなる』に詳細に書いてあるので割愛する。
 
 
 

Monday, 9 January 2012

「再現できればよかった科学」は意識の問題には通用しないかもよ

(似たようなテーマですまん。しかも、この話題は多分基本事項なんだろうとは思う。)

神経系において、ミクロなメカニズムは、ニューロンの相互作用と考えられているが、現在の相互作用の規則は将来、もっと適切な別のもので置き換えられるかもしれない。

しかしながら、相互作用を持つという構造が否定されない限りは、神経系のモデルは行列表現を持つことになってしまうだろう。それが例え状態ベクトルがアナログ量で表されていたとしても、系の相互作用規則が行列表現で書けてしまう事を排除するわけではない。

この事と、我々の意識を生み出しているのは神経系なのだという信念とを組み合わせると、多数のニューロンの相互作用から魔法のように意識が湧いてくると言わざる負えなくなる

有機物を、酸素の中で燃焼させる分子同力学的シミュレーションの計算は可能で、そこから正確な量の二酸化炭素と水蒸気が排出され、燃焼熱が発生することが計算ではじき出されるだろう。

これと同格な意識のシミュレーションを行おうとすると、多くのニューロンの相互作用を計算することで、その計算上の神経系が、意識のある人の脳の出力を全て再現する事ができればよいという事になる。つまり「神経科学的ゾンビを計算によって実現できればよい」というのが、これまでの科学の方法による目標であり到達点となっている。

話は、一旦、横道に逸れるが、状況は、統計力学が生まれる前の物理学の状況に似ている。百年以上も前から、物理学は、「未来は決定していることを認めるか、それともニュートンの運動方程式以外の未知の確率的な法則を受け入れるか」の選択を迫られてきている。

ニュートンの運動方程式は決定論的な方程式であるために、初期状態を全て与えられたら方程式に従って未来が決まる。我々の能力が初期状態を知ることができないとか、計算に要する時間が現実を超えることは無いとか言う事があったとしても、未来が決定していた事を確認できるのを否定できない(=未来が決定している)ということになってしまう。

統計力学以降、量子力学によって、位置と運動量を同時確定的に観測できないことが分かったが、これは、観測値が不確定性を持つ(確率的だ)と言っているのであって、自然界の時間発展が確率的だ(未来が現時点で決定していない)と言っているわけではない(※注1)。シュレディンガー方程式は、決して確率的な時間発展をするわけではなく、決定論的な方程式だからだ。そして、ヒトがなす観測操作であっても、ヒトは原子、分子から作られた自然の一部なのであり、それは、シュレディンガー方程式で記述されるべきだからだ。

初期の成功をおさめた統計力学は、アンサンブル平均が時間平均とが等しくなるという仮定(エルゴード近似)が成り立つ範囲の近似であって、元々のニュートンの運動方程式が現実に計算可能であればこの近似が必要ないと考えられた。実際には、アボガドロ数個の分子の全てに対する方程式は、数が多すぎて現時点において計算可能ではない。(※注2)

ところが、現代においては、アボガドロ数個の方程式の計算は依然無理だとしても、十分に統計性が見えるほどの数の方程式を数値計算によって解くことが可能になった。

重要な点は、その現代においても、統計力学に依らねば例えば相転移現象(例えば、磁石を熱していった時にある温度(キュリー温度)で急に磁石でなくなってしまう現象)等を理解することはできないということだ。

例えば、磁場を(正確には交換相互作用を)及ぼしあう原子同士の運動方程式を、いくら眺めても、キュリー温度が出てくるようなメカニズムは見えてこない。

ところが、エルゴード近似を施して初めて、例えば比熱の発散する温度としてキュリー温度を求めることができる。

エルゴード近似を施した後の統計力学をマクロな方程式と呼べば、このマクロな部分が無くても、ミクロな方程式だけで、現象を再現できる。ところが、マクロな方程式無しでは、ミクロ方程式が膨大な数あって初めて現れてくる特異点(相転移温度)を解析的に予言できない。

以上の類推から、ぽよは、140億個の大脳皮質プライマリーニューロンの相互作用を行列で表現し、計算を忠実に遂行して神経科学的ゾンビという現象を再現することができたとしても、依然として、何故意識が浮かび上がってくるのかを理解できることは無いと思うのだ。

 石川による記事で投げかけられていた問「量から質への転換がおこるだろうか」に関して、膨大な数のミクロ運動方程式による相転移現象のシミュレーションは、まさにこれが起こっていることの一例を提示している。

しかし、我々が必要としているのは、どのようにこの転換が起こっているのかを科学的に理解することであって、シミュレーションで結果を再現することだけではない。シミュレーションの結果を観察することでは、結局、リアルな世界で自然現象を観察した場合と同じ情報しか得られないだろう。

よく言われることだが、科学で重要なのは「再現性」であるという。しかし、意識の問題を理解するために、これまでの科学は、更に、一振りの塩(何らかの変更)を、必要としているのだと思う。

未来の科学に必要となる小さな変更(先入観を捨てる事)とは、一体なんなのだろうか? 

それは、「同時性の破れ」や「不確定性」の受け入れに相当するようなことであるに違いないと、ぽよは考えている。そして、その変更は、それが受け入れられた後では、あまりに当然過ぎて、過去の人々は何故、この変更を受け入れられなかったのか首を傾げるようなものであるに違いない。更に言うなら、適用範囲を現代の科学の守備範囲に絞った場合には、正しく現代科学の結論と同じ結果を出すようなものであるはずだ。

考えてみれば、相転移現象を説明する統計力学も、時間変数の方程式を確率分布に変換する時にエルゴード仮説に基づく「解釈」を加えて近似しているのであって、運動方程式やシュレディンガー方程式から導いているわけではない。

ここで、「解釈」などという呼び方をするのは、その解釈が無くても、運動方程式だけで現象が起こるからだ。この事から類推して心脳問題を考えると、現状は以下のようになりそうだ。だが、ほんとうにそうだろうか?

 「形式的な基本方程式で神経科学的ゾンビを作っても、そこに心が宿ってしまう。しかし科学的理解は謎のままだ。将来、(僅かの)解釈を加えた統計力学に相当する理論によって、心がある状態に対する科学的理解は得られるかもしれない。しかし、依然として形式的な方程式から心の科学的理解が導かれるわけではない。」

少なくとも、「再現できればそれでよい」と言っているだけでは埒があかない事だけは確かだろう。



Tuesday, 3 January 2012

「時間」の事が分からないから、自由意志も分からなくなる

「時間」について調べると、そこには難しい言葉が並び、よく分からない概念が語られ、ぽよは、いつも挫折感を味わう。特に自由意思の事を考える時は、「要するにわからんのだと何故言わない!」と叫びたくなる。茂木の言うことも、これと似ていて、たまに分からない。更に言うと、例えば括弧付きの「今」なんて、日常語なので分かりそうな気がして考えてみるのだが、読んでみると、さっぱりわからない。正直、茂木の書く事は、単純頭のぽよには難しすぎる。

そこで、茂木が言っている「今」を、物理とか情報処理とかしか分からない ぽよが、分かる事だけで解読してみようと思う。恐らく間違っていると思うが、こう言った悪あがきをしないと、ついてゆけないので勘弁してほしい。

自由意思が何故「自由」という言葉を冠するかというと、「君は、次に手を挙げるよ」と予想されても、その通りにするかどうかを決めるのは自由、つまり「意思は予想通りにならない」という性質からくる。

しかし、これを認めてしまうと、常に原因と結果の関係(因果関係)を探し求めようとする科学の目的と競合してしまうように見えるし、何よりも、「現段階で未来に何が起こるか決定していない」と言う、未だ科学的に確かめられていないし、論理的にも立証されていない事を根拠なく認める事になってしまう。こう書くと、「未来が決定している等という事は、あるわけがない」という人がいるかもしれないが、我々の直観に反して、現在正しいと信じられている最良の物理理論(量子力学と相対論)は、(その適用範囲内において、)どちらも未来が決定しているかのように記述されているのだ。(※注1)

かくして、意思の自由性と決定論を両立させようとすると、

(1)「予想通りにならない」という自由性が成立するには、「意思が生じる直前の経験Eを基にした予想Cと、続いて起こる意思Mの内容が常に等しくなる(=自由でない)」ということが無ければよいのであって、もっとずっと過去に遡った経験によって決定論的に宿命づけられていたとしても矛盾が生じていない。

つまり、過去全体をPとすると、

因果的にP→E、P→Mではあるけど、E⇒Cであっても、いつもC=Mとは限らない。

(2)決定論的に起こっていることを「自由だ」と感じてしまうような、「自由意志感覚のクオリアを持つのだ」という解釈をしてしまおう。

という説明をしたくなるが、どちらも分かった気がしない。何故なら、(1)については、因果的な結びつき「→」とは何なのかがよく分からない。言い換えれば、因果関係「→」を表すために適切な方程式が無い。(2)については、クオリアと対応する脳活動の内容が明らかになっていない。

ただ、少なくとも、意思Mの自由性を決めているのは、Mを引き起こしている脳活動の時空間的近傍だという事は、この状況から読み取れる。言い換えれば、脳の過去全体Pに渡る経験や、脳全体の活動を含めていないから、この自由性(EとMとの間に因果関係が無いということ)がありうるのだという事だ。もちろん、脳活動を担うニューロンたちは極めて因果的に時間発展している。無理やり解釈すれば、茂木の言う「今」というのは、この「意思Mを引き起こしている脳活動の時空間的近傍」の事かなとも思う。きっと違っているのだろう。

これと同様に、

(A)時空間全体を考えると決定論的なのに、注目している時空点の時空間的近傍を考えると、因果関係が存在しなくなる
(B)微視的近傍では因果的なのに、すこし時空間近傍のサイズを広げると因果関係が存在しなくなる

という状況は、ぽよが知る限り、以下のような物理に存在する。

★一つは、アインシュタイン方程式:
が記述する世界だ。この方程式をコンピューターでシミュレーションしようとすると、(流れない)時間座標と空間座標とで張られる点と点との関係がその座標点毎に場の量で決まっているために、これが時空全体でツジツマのある距離関係(計量と呼ぶ)の分布を探索する羽目になる。
つまり、ある時刻のある場所で測った他の時空点との距離関係が分布しているだけであるので、全体としての時間の発展という概念が見当たらないのだ。時空点と時空点の間の関係は、上の式の未知数である、gμνが局所的に記述しており、このgμνが満たすべき幾何学的法則をGμνが記述している。

だから局所的にある時空点の周りを見回せば、解が時間発展や因果関係を記述していると言えなくもないが、むしろ上のアインシュタイン方程式が表すものは、世界全体の『静止した』決定論的記述なのだ。

★もう一つは、摩擦が考えられなくなるほど微視的世界の粒子の運動の時間発展の法則だ。
微視的世界では、動画を逆再生させたような粒子の動きであっても、これを含むマクロな現象に矛盾を生じさせない事が可能だ。逆回しの運動も、与えられている方程式を満たすからだ。つまり微視的な世界では明らかに時間の方向があり、粒子の初期位置が、微小時間後の粒子の位置を決定づけている。しかし、マクロな現象の時間発展(言い換えれば、マクロな現象の因果関係)とは独立だ。マクロな現象の時間発展を論ずるには、もう一振りの塩が必要なのだ。それは、例えば次のような方程式
のx=0における仮定によって、この点で過去を辿れなくなるような、何通りもの時間発展がありうる(下図)ことからも推測できる。
図の縦軸はx、横軸は時間t、初期値(τ,ε)によって、複数の時間発展が存在する。

この場合の「もう一振りの塩」とは、初期値 (τ,ε)で、僅かな値εを与える時刻τを何時にするかという事だ。この時刻を境にして、系を表す方程式は過去に向かって逆に辿ることができなくなる(過去の記憶が消える)のだ。(※注2)

★更にもう一つは、有名なパイ生地変換の物理だ。パイ生地にビーズを1個だけ入れて、伸ばしては半分に折るという事を繰り返し、このビーズがパイの生地の左にあるか右にあるかを0か1で表す事にする。
パイこね変換の図:のばした時に左にあれば0、右にあれば1とする。

この系では、毎回毎回、直前の過去に向けて方程式を逆に辿ることはできない。つまり、過去の情報は折りたたむたびに失われる。この系で、折るたびに決まる0、1の数を並べたときに現れる数列
01000101111010111011....

が、続けてコイントスした時のコインの裏表に対応させた1と0の現れ方と全く同じ性質を持つということが知られている。それにも関わらず、最初のビーズの位置を無限精度で与えたときのその初期位置を表す数と、上の数列は一対一に対応しているのだ。もちろん、初期位置がランダムであれば、上記の数列もランダムになる。これは、ランダムという意味で、予想がつかないが、それは、初期位置を表す数を知らないからであって、それさえ知っていれば(この系の過去から未来を表す全体を知っていれば)決定している。この例は、
  1. 微視的時間発展においては、未来を予測できるという意味で因果関係を持っている。
  2. その一方で、数十回の折りたたみ後の未来は、殆ど予測できない。
  3. 更に、系全体の過去から未来にわたる決定性(つまり全部の初期情報を与えれば未来が完全に分かる)は保障されている。
このように、決定論的物理現象の中に埋め込まれた形で、非因果的な(予測したとおりにならない)現象が(時空間的な局所系に)存在するということは物理にも存在するのである。

※注1:量子力学も、観測操作自体を波動関数の時間発展で記述されるべきであるとする、より一般的な適用の仕方をすれば、確率解釈の部分が時間発展と独立になってしまうので、そこには波動関数の決定論的時間発展しか存在しない。)
※注2:ここは、少し誤魔化した。ここで言うような、過去の情報の忘却と、エントロピーが増大するような意味の過去の忘却とを同じであるかのように言うのは言い過ぎ。むしろ、この過去情報の忘却は不連続性から出てくるので、次のパイこね変換で失われるような意味の過去情報の忘却に近い。
※注3:ちょっと、投稿ペースが速いが、正月だけネ。春休みまで、しばらくお休みするよ。

Saturday, 31 December 2011

意識は機械的情報処理に対して後付の解釈をする機械的情報処理か?

茂木の言う拒否権を担う脳活動自体は、無意識の準備段階を持たないという事か? (他の脳活動は、この無意識の準備段階を持つにもかかわらず。)
ぽよは、意識の脳活動は、無意識の自動機械的情報処理に対して後付の解釈をしているだけだと思うのだが。

事実関係を確認すると、ぽよがchange blindnessのMEGを計測したとき、回答を発見する1秒前のフレームまでの脳活動を、フェイクで2枚の画像を同じものにしておいた場合の活動と比較すると、楔前部や帯状回後部の活動が起こらない点が違っていた。つまり、awarenessが期待される時、楔前部や帯状回後部に活動が生じるのである。これは、網膜残像の違い検出とは異なる。もしそうであれば、2枚の画像の交互提示を始めた直後でも、この違い検出が起こるはずだからだ。発見の直前であり、かつまだawarenessが生じていないと思われる1秒前のフレームであることが重要なのだ。これを見ると、発見等、殆どの思考活動において、awarenessの出現に先立って脳活動が起こるという点は間違いないと思う。

これを確かめた後、回答を発見したときの脳活動を調べると、楔前部や帯状回後部に加えて、帯状回前部、前頭前野に活動が現れることが分かった。ところが、発見が意識に上った時にだけ現れる帯状回前部、前頭前野などの活動の時刻はボタン押しと同時か、数十ミリ秒程度ボタン押しより遅くなる。これを見ると、拒否をしたくても間に合わないように思うのだ。

ぽよにとっては、むしろ、「(何かをきっかけにして)意識に上ってしまう」という事自体が、抗う事の出来ない機械的自動処理であるように見える点が、「これでいいのか?」と思ってしまう点だ。「特定の情報処理に、特定の意識がへばり付いている」なんて安易な事を言っても、分かったような気がしない。コンピューターのプログラムに特定の意識がへばり付いているのを見たことが無いからだ。機械的情報処理の中の、一体どこからawarenessが生まれてくるのか?