Saturday 21 January 2012

心はどれだけ置き換え可能か?クオリアは再生速度依存か

意識の基盤となる神経発火活動が行列表現を持つなら、なぜいまや脳以上に複雑な相互作用が今この瞬間も進行していると思われるインターネット全体には意識が宿らないのかという問い掛けが田森から挙がった。どのような意味で複雑なのかの定義はそれこそ複雑に違いないが、ある程度複雑な相互作用が存在することは、意識体験を生じさせる必要条件のように思われる。しかし、神経活動の相互作用がニューロンによって担われていなければならない理由があるとすれば、必ずしも十分条件ではなくなる。

同様の議論は多くの哲学者や神経科学者によって何度も繰り返されている。例えば、ネッド・ブロック(Ned Block, 1978)らは、ある人の脳内の神経活動をトレースして神経活動以外で再現できたとすれば、そこに意識は宿るだろうかと考え、中国脳(China brain; Chinese NationやChinese Gymとも呼ばれる)という思考実験を提案した。その設定では、すべての中国人がお互いに連絡を取れ、しかも同時に何人とでも通話できる特別な携帯電話のような装置を持っているとする。そして、あるひとりの人の脳(それが中国人であるかどうかはここでは重要ではない)をくまなくスキャンし、すべての神経細胞をそれぞれの中国人に割り当てる。もし人数が足りない場合は適宜中国人以外も動員すればよい。あるニューロン間に発火が伝播したら、対応する中国人間で電話を掛けることにする。全中国人によって実現されている現在の心的状態(すなわち誰と通話中か)は衛星に表示し、中国全土のどこからでも見えるようにする。こうして、あるひとつの脳の神経発火活動を中国人全体の通話の相互作用ダイナミクスとして再現したことになる。身体化(enbodyment)を気にする人のために、さらに中国脳をロボットの身体に接続して感覚入力と運動出力まで考慮した場合、中国脳は身体を持つこともできる。このとき、中国脳は意識を持つだろうか。ブロックは大勢の中国人が通話をしているだけで、もちろんそこに意識は生まれないだろうと結論付けた。しかし、機能主義の立場に立つダニエル・デネット(Daniel Dennett, 1991)は中国脳にも意識が立ち上がるはずだと主張した。

中国脳の思考実験で中国が選ばれた理由の一つは、中国人の人口が脳内の神経細胞数に伍するほど多いということもあるだろうが、サールが中国語の部屋(John Searle, 1980)の思考実験でまさに同じく中国を選んだように、英語を中心とした欧米言語文化圏から見て、自分たちに理解できない言語を使って意思疎通をしているというある種の脅威や、またはその裏返しとしての畏敬に近いオリエンタリズムのようなものを、意識的、無意識的かを問わず感じるからではないか。文字がアルファベットに比べて複雑で珍奇であることも影響しているだろう。その感覚を強いて想像するなら、我々がたとえばアラビア語やサンスクリット語の文字を見たときに感じる何とも言えない、これを読み書きし使用している人々がいる(いた)という驚異的な事実の前に平伏すしかない感慨深さと似たような感覚だろうか。

中国脳において、ニューロンを中国人に置き換えるというアイデアは大胆かつ奇抜で面白いストーリーだが、現実的に考えるなら、ニューロンをその動作を完全に再現できる精巧な素子(コンピューター)で置き換えた場合にどうなるかという問いと基本的には同じであると見なせる。ある人の脳内のニューロンを一つずつ精巧な素子で置き換え続けて行った場合に、どの時点で意識の内容が変容したり、失われたりするだろうか。徐々に変化するか、一度に急激に変化するか、あるいは最後まで失われずに保たれるものがあるか、議論の分かれるところである。また、人工の素子ではなく、培養したニューロンで置き換えた場合にも同じ事が生じるのだろうか。

意識の生成(creation)と消滅(annihilation)をある種の物理的な相転移として考えたときに、その元となる構成要素が生体であることはその本質にどのように影響しているのかは未知である。このような議論は実は非常に古くからあり、哲学においてテセウスの船(Ship of Theseus)として知られる問題の一種であると捉えることができる。すなわち、ある物体の構成要素のすべてを置き換えたとしてもそれは元と同じものと言えるか、という同一性についての問題である。全部置き換えるのではなく、少しずつ取り去る場合にどこまでその本質が保たれるかという形式の場合は、砂山のパラドックスと呼ばれる。新陳代謝によって体細胞が少しずつ入れ替わっても、我々は自己同一性を保つことが出来るがなぜそれが可能なのだろうか。

部分と全体、内包と外延、集合とその要素、タイプとトークン、それらの混同や同一視について、郡司ペギオ幸夫は圏論(category theory)や束論(lattice theory)などの関係性や抽象的な概念を扱う数学(conceptual mathematics)によってモデル化しようとする試みを続けている。池上高志が生命の構成論的な研究を進める手法として、セルオートマトン(cellular automaton)による表現を持つ人工生命(artificial life)の研究を続けているのも、意識を培う神経発火活動が行列表現を持つように、生命の本質も動的な行列、すなわちセルオートマトンの時間発展として書けるだろうかという同型の問題を扱おうとするものではないかと理解している。また、田森や茂木が指摘するように、個々のミクロな方程式の全体と統計的なマクロな性質がどのように関係するのか、確率をどのように解釈するか、統計アンサンブルの問題を明らかにすべきであるという方針も、言葉遣いが違うだけで、通底する問題意識に貫かれているように思われる。

話がやや逸れたので元に戻ると、中国脳の操作の想定は、チャーマーズによる哲学的ゾンビ(David Chalmers, 1996)の制限を緩めた構成論的な具体例として捉えることが出来る。つまり、中国脳を搭載した非常に精巧なロボットが意識を持った人間と区別ができないとしたら、それは哲学的ゾンビであろうか。哲学的ゾンビに意識体験を持つ特定の人間の脳活動の情報を付与してその通り忠実にトレースさせた場合に、それでもその哲学的ゾンビは意識を持たずに哲学的ゾンビのままでいられるか、と言い換えることも出来る。この場合、身体がロボットである必要は必ずしもなく、倫理的な問題をとりあえず脇に置いておくとして、たとえば脳死した身体に中国脳を接続することは思考実験としては可能である。別の人から生体としての脳を移植をする場合と、中国脳を移植する場合でどんな違いがあり得るだろうか。特に、このような状況を考えると興味深いと思われる。それは、脳死する前にその人本人の脳活動を記録して保存しておき、脳死後の身体に埋め込んだ中国脳で生前に記録した脳活動を再現させた場合、その人は生きていたときの過去の心的状態や意識をリプレイするだろうか。

中国脳に対する批判はいくつもあるようだが、ここでは時間について考えてみたい。中国人が特別仕様の携帯電話で通話するとして、ある人が同時に一万人と通話するなんてこともざらである。そのこと自体がそもそも想像を絶する事態である、という事実は指摘に値する。それはともかく、ニューロンは速いものだと数ミリ秒単位で発火するが、それに対応する中国人の会話がより現実的に考えて(思考実験に現実的という設定もおかしなものだが)、仮に数秒単位や数十秒単位でしか行えないとしたらどうなるだろうか。すなわち、神経活動を「スロー再生」して異なる時間スケールで再現するとどうなるのか。

この際、中国脳に意識が宿るかどうかという議論を省くため、意識を持ったある人の脳活動を何らかの方法で直接操作できる場合を考えよう。神経活動を(物理時間に対して)2倍速にしたり、1/2倍速にしたりと可変であったとしたら、神経活動の「速さ」によってその人の意識体験は変化するだろうか。それとも不変だろうか。神経活動の時空間パターンとクオリアが一対一に対応するなら、すべての神経活動が2倍速で早回しになったら、別のクオリアと対応すべきか(ただし、発火パターンとクオリアの対応関係が縮退していなければ)、または対応するクオリアがない、すなわち意識を消失するかだろう。もしそうだとすると、ある意識を生む神経活動に特別な物理的時間スケールが存在することになるが、他でもないその特定の物理的時間スケールでなければある意識が生まれなかった理由とは何であろうか。

もし意識が生命とカップリングして共に進化して来たなら、代謝速度のような生体由来の時間スケールと意識の時間スケールが密接に関連していて切り離せないという可能性はある。その場合、生理学的にあり得ない発火頻度になるぐらい早回ししたりスローモーションにしたりした発火パターンが対応する先の、我々が逆立ちしても体験できないクオリアがもしあるとしたら、それはどんな世界だろう。あるいは、再生速度を変えてもクオリアが変わらない場合、すなわち、意識を生むのに特別な物理的時間スケールがないのだとすれば、クオリアは神経活動パターン全体に対する時間スケール変換に不変ということになる。

石川哲朗

6 comments:

  1. 面白いね! 意識の理論は、まずは計算論的な場から立ち上がらなければならない、という気がしています。しかし、そこで「持続」とか「経過」など、現象学的時間の基本的な性質が何らかのかたちでとりこまれなければならない!
    問題は時間が経ってしまうという点にあって、そのことが、「生体」とチューリング・マシンのような計算の理論モデルの差異をつくり出しているように思う。

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  2. 時間についてはわからないのですが、「生体」について。
    今現在の生物学では「生命とは何か?」という問いに対してこたえられません。

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  3. 「量子力学的並行宇宙論」と「クオリア」とか面白いのじゃないかな?

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  4. 中国脳は面白いと考えていたのだけど、中国版ツイッター「微博」のユーザーが3億人を超えたと言うニュースがあったと思う。フォローを入力、フォロワーを出力と考えられる。アラブの春はツイッター脳とフェイスブック脳が起したと、考えると面白い。

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  5. ここで言う時間スケール不変とは、いわゆる共形変換不変のカテゴリーの一つである時間スケール変換不変ではないのだよね? 例えば、PCが計算中にクロックをフリーズさせ、一年後にクロック変化を再開させると、何事もなかったようにPCはプログラムの計算を続ける。通常の物理法則を信じるなら、こういった時間スケール変換不変はセントラルドグマと言っていいと思う。

    しかし、ここで言う時間スケール依存とは、そういう時間スケール不変な複数のシステムが相互作用しているような場合であって、これらの系どうしにとって相対的な意味での時間スケール依存が、「何か」を生む事はあり得ると思う。

    (情報論的な意味で)計算可能な情報処理システムは、そういう複数の時間スケール不変システムのうちの一つであり、離散「極限」(一般関数集合から正則関数集合への「極限」)になっていると思う。(これは、ぽよのイメージするニュアンスを表現したもので、極限という言葉は不適切かもしれない。)

    ところで、「ある人の脳内のニューロンを一つずつ精巧な素子で置き換え続けて行った場合に、どの時点で意識の内容が変容したり、失われたりするだろうか。」という事について、ぽよが授業で使っているスライドがあるので、後で投稿しておくね。。

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  6. 現象学的時間が物理的時間とどのような関係にあるか(折り合いをつけるか)は、 http://bit.ly/wDISxof でも指摘されていたように重要だと思います。特に現象学的時間が経過することを、マクタガートのように時間の不在性へと帰結させずに記述すること。つまり、相互作用同時性で「今」を作れたとして(それ自体もまだ問題ですが)、さらに過去と未来を作るような制約条件かさらなる別の原理を見つける。

    それから、相互作用する複数の系にとっての相対的な時間スケール依存が「何か」を生み出し得る、というのはとても面白い予想です。田森さんの離散「極限」のイメージについてもぜひもっと詳しく知りたいので、もしよかったら別に記事を書いて下さいませんか。このコメント欄では狭いので!スライドも楽しみです。ありがとうございます。

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