Wednesday 25 January 2012

心脳問題のためのリポート課題

本記事では、ぽよの脳科学関連の授業で用いたリポート問題を紹介したい。

 
以下の問題のテーマの中から、一つ以上の問題を選び、最初の200文字程度の段落で、結論を明示 し、その根拠を示す実験結果を列挙しなさい。
 
  1. 念力の存在(自然界と相互作用を持つように見える心)
  2. 自分の正体
  3. 記述されたものと、実体との違いとはなんなのだろうか?
  4. 存在しているのは世界か? それとも心か?一番外側にあるのは、どちらか? 
  5. 脳だけでよいのか?
  6. 意思の自由性と決定論的に見える世界。共存できるのか、それとも、どちらかが間違っているのか?
1.念力の存在(自然界と相互作用を持つように見える心)

物理学的事実の確認

  • 全ての物質は(脳も) 、原子、或いは素粒子からできている。
  • 粒子であれば、運動を計算することで、未来の位置や速度を予測できる。
  • つまり、未来は、宿命付けられており、知性に見える脳の振る舞いも、タダの原子の機械的運動に過ぎない(。。。ように見える。(実は、ちょっと端折った))。
では、心は、物質に作用することができるのだろうか?
⇒ 要するに「念力はあるか?」という問い。
そんなバカな!
本当に、そう思いますか?

ヒトは自分の意思で体を動かす時、「体」という原子が集まって作られた「物質」を動かしている。
イオンチャンネルへのイオンの出入りを引き起こす元になる力は何?
  • ヒトが手を上げたのは、手に関する運動野が活動したからだ。
  • 手に関する運動野が活動するとは、そこのニューロンにNaイオンが流入し、Kイオンが流出するという現象が繰り返し起こるということ。
  • この「物質現象」を引き起こしたのは、あなたの心ではないのか?
「この物質現象を、あなたの心が引き起こした。」
問:これは、念力と違うのか?違うとすれば、何故か?
 
2.自分の正体
 



じゃあ、外界が脳の中の何に対応しているのか考えてみよう。(特に「色」は何に対応している?)
 

問: 何が、視覚入力を見ているのだろうか?

3.記述されたものと、実体との違いとはなんなのだろうか?
PC内の各部品の仕組みを理解しても。。。
  • Excelの機能は分からない。
  • ワードの機能も分からない。
  •  (ノイマン型コンピューターの仕組みを理解したとしてもだめ。)
ダメダメ尽くし
  • 赤に応答する場所があるというだけではダメ。
  • 赤錐体から情報が投射しているという事実だけではだめ。
  • V4(色のセンター)の位置にも意味が無い。
  •   (臨床上は、当然意味がある)
  • 全ての部品の役割が分かってもダメ。
情報記述に内容は無い
  • 情報の記述の為の方法は任意であった
  例:
        赤=red=0xFF0000=16711680
         =V4の赤ニューロンの活動
         =TVの赤蛍光体の発光
 
脳活動によって生まれる素朴なものたちを科学的に理解する
  脳活動によって生まれる素朴なものたちの例
     クオリア、意味、理解
  「情報の記述を読み解く脳の中にある」で済ませてはいけない。
 
問:記述と記述されたものとの違いとは何なのだろうか?
 
4.存在しているのは世界か? それとも心か?一番外側にあるのは、どちらか? 
 
単に、「入力が無いからだ」では答えにならない。

問:存在しているのは世界か? それとも心か?一番外側にあるのは、どちらか? 
 
5.脳だけでよいのか?
 
脳の機能は、ニューロンへの入力の場所に依っているわけではない。
 
 
脳の機能は、入出力がある事に依っているのではない。つまり、身体性を表現する情報処理は必要であるが、身体が必要だという分けではない。
 
6.意思の自由性と決定論的に見える世界。共存できるのか、それとも、どちらかが間違っているのか?
 
これについては、『「時間」の事が分からないから、自由意志も分からなくなる』に詳細に書いてあるので割愛する。
 
 
 

Saturday 21 January 2012

心はどれだけ置き換え可能か?クオリアは再生速度依存か

意識の基盤となる神経発火活動が行列表現を持つなら、なぜいまや脳以上に複雑な相互作用が今この瞬間も進行していると思われるインターネット全体には意識が宿らないのかという問い掛けが田森から挙がった。どのような意味で複雑なのかの定義はそれこそ複雑に違いないが、ある程度複雑な相互作用が存在することは、意識体験を生じさせる必要条件のように思われる。しかし、神経活動の相互作用がニューロンによって担われていなければならない理由があるとすれば、必ずしも十分条件ではなくなる。

同様の議論は多くの哲学者や神経科学者によって何度も繰り返されている。例えば、ネッド・ブロック(Ned Block, 1978)らは、ある人の脳内の神経活動をトレースして神経活動以外で再現できたとすれば、そこに意識は宿るだろうかと考え、中国脳(China brain; Chinese NationやChinese Gymとも呼ばれる)という思考実験を提案した。その設定では、すべての中国人がお互いに連絡を取れ、しかも同時に何人とでも通話できる特別な携帯電話のような装置を持っているとする。そして、あるひとりの人の脳(それが中国人であるかどうかはここでは重要ではない)をくまなくスキャンし、すべての神経細胞をそれぞれの中国人に割り当てる。もし人数が足りない場合は適宜中国人以外も動員すればよい。あるニューロン間に発火が伝播したら、対応する中国人間で電話を掛けることにする。全中国人によって実現されている現在の心的状態(すなわち誰と通話中か)は衛星に表示し、中国全土のどこからでも見えるようにする。こうして、あるひとつの脳の神経発火活動を中国人全体の通話の相互作用ダイナミクスとして再現したことになる。身体化(enbodyment)を気にする人のために、さらに中国脳をロボットの身体に接続して感覚入力と運動出力まで考慮した場合、中国脳は身体を持つこともできる。このとき、中国脳は意識を持つだろうか。ブロックは大勢の中国人が通話をしているだけで、もちろんそこに意識は生まれないだろうと結論付けた。しかし、機能主義の立場に立つダニエル・デネット(Daniel Dennett, 1991)は中国脳にも意識が立ち上がるはずだと主張した。

中国脳の思考実験で中国が選ばれた理由の一つは、中国人の人口が脳内の神経細胞数に伍するほど多いということもあるだろうが、サールが中国語の部屋(John Searle, 1980)の思考実験でまさに同じく中国を選んだように、英語を中心とした欧米言語文化圏から見て、自分たちに理解できない言語を使って意思疎通をしているというある種の脅威や、またはその裏返しとしての畏敬に近いオリエンタリズムのようなものを、意識的、無意識的かを問わず感じるからではないか。文字がアルファベットに比べて複雑で珍奇であることも影響しているだろう。その感覚を強いて想像するなら、我々がたとえばアラビア語やサンスクリット語の文字を見たときに感じる何とも言えない、これを読み書きし使用している人々がいる(いた)という驚異的な事実の前に平伏すしかない感慨深さと似たような感覚だろうか。

中国脳において、ニューロンを中国人に置き換えるというアイデアは大胆かつ奇抜で面白いストーリーだが、現実的に考えるなら、ニューロンをその動作を完全に再現できる精巧な素子(コンピューター)で置き換えた場合にどうなるかという問いと基本的には同じであると見なせる。ある人の脳内のニューロンを一つずつ精巧な素子で置き換え続けて行った場合に、どの時点で意識の内容が変容したり、失われたりするだろうか。徐々に変化するか、一度に急激に変化するか、あるいは最後まで失われずに保たれるものがあるか、議論の分かれるところである。また、人工の素子ではなく、培養したニューロンで置き換えた場合にも同じ事が生じるのだろうか。

意識の生成(creation)と消滅(annihilation)をある種の物理的な相転移として考えたときに、その元となる構成要素が生体であることはその本質にどのように影響しているのかは未知である。このような議論は実は非常に古くからあり、哲学においてテセウスの船(Ship of Theseus)として知られる問題の一種であると捉えることができる。すなわち、ある物体の構成要素のすべてを置き換えたとしてもそれは元と同じものと言えるか、という同一性についての問題である。全部置き換えるのではなく、少しずつ取り去る場合にどこまでその本質が保たれるかという形式の場合は、砂山のパラドックスと呼ばれる。新陳代謝によって体細胞が少しずつ入れ替わっても、我々は自己同一性を保つことが出来るがなぜそれが可能なのだろうか。

部分と全体、内包と外延、集合とその要素、タイプとトークン、それらの混同や同一視について、郡司ペギオ幸夫は圏論(category theory)や束論(lattice theory)などの関係性や抽象的な概念を扱う数学(conceptual mathematics)によってモデル化しようとする試みを続けている。池上高志が生命の構成論的な研究を進める手法として、セルオートマトン(cellular automaton)による表現を持つ人工生命(artificial life)の研究を続けているのも、意識を培う神経発火活動が行列表現を持つように、生命の本質も動的な行列、すなわちセルオートマトンの時間発展として書けるだろうかという同型の問題を扱おうとするものではないかと理解している。また、田森や茂木が指摘するように、個々のミクロな方程式の全体と統計的なマクロな性質がどのように関係するのか、確率をどのように解釈するか、統計アンサンブルの問題を明らかにすべきであるという方針も、言葉遣いが違うだけで、通底する問題意識に貫かれているように思われる。

話がやや逸れたので元に戻ると、中国脳の操作の想定は、チャーマーズによる哲学的ゾンビ(David Chalmers, 1996)の制限を緩めた構成論的な具体例として捉えることが出来る。つまり、中国脳を搭載した非常に精巧なロボットが意識を持った人間と区別ができないとしたら、それは哲学的ゾンビであろうか。哲学的ゾンビに意識体験を持つ特定の人間の脳活動の情報を付与してその通り忠実にトレースさせた場合に、それでもその哲学的ゾンビは意識を持たずに哲学的ゾンビのままでいられるか、と言い換えることも出来る。この場合、身体がロボットである必要は必ずしもなく、倫理的な問題をとりあえず脇に置いておくとして、たとえば脳死した身体に中国脳を接続することは思考実験としては可能である。別の人から生体としての脳を移植をする場合と、中国脳を移植する場合でどんな違いがあり得るだろうか。特に、このような状況を考えると興味深いと思われる。それは、脳死する前にその人本人の脳活動を記録して保存しておき、脳死後の身体に埋め込んだ中国脳で生前に記録した脳活動を再現させた場合、その人は生きていたときの過去の心的状態や意識をリプレイするだろうか。

中国脳に対する批判はいくつもあるようだが、ここでは時間について考えてみたい。中国人が特別仕様の携帯電話で通話するとして、ある人が同時に一万人と通話するなんてこともざらである。そのこと自体がそもそも想像を絶する事態である、という事実は指摘に値する。それはともかく、ニューロンは速いものだと数ミリ秒単位で発火するが、それに対応する中国人の会話がより現実的に考えて(思考実験に現実的という設定もおかしなものだが)、仮に数秒単位や数十秒単位でしか行えないとしたらどうなるだろうか。すなわち、神経活動を「スロー再生」して異なる時間スケールで再現するとどうなるのか。

この際、中国脳に意識が宿るかどうかという議論を省くため、意識を持ったある人の脳活動を何らかの方法で直接操作できる場合を考えよう。神経活動を(物理時間に対して)2倍速にしたり、1/2倍速にしたりと可変であったとしたら、神経活動の「速さ」によってその人の意識体験は変化するだろうか。それとも不変だろうか。神経活動の時空間パターンとクオリアが一対一に対応するなら、すべての神経活動が2倍速で早回しになったら、別のクオリアと対応すべきか(ただし、発火パターンとクオリアの対応関係が縮退していなければ)、または対応するクオリアがない、すなわち意識を消失するかだろう。もしそうだとすると、ある意識を生む神経活動に特別な物理的時間スケールが存在することになるが、他でもないその特定の物理的時間スケールでなければある意識が生まれなかった理由とは何であろうか。

もし意識が生命とカップリングして共に進化して来たなら、代謝速度のような生体由来の時間スケールと意識の時間スケールが密接に関連していて切り離せないという可能性はある。その場合、生理学的にあり得ない発火頻度になるぐらい早回ししたりスローモーションにしたりした発火パターンが対応する先の、我々が逆立ちしても体験できないクオリアがもしあるとしたら、それはどんな世界だろう。あるいは、再生速度を変えてもクオリアが変わらない場合、すなわち、意識を生むのに特別な物理的時間スケールがないのだとすれば、クオリアは神経活動パターン全体に対する時間スケール変換に不変ということになる。

石川哲朗

Monday 16 January 2012

因果的閉包性

茂木健一郎

 自由意志について考える際に前提になることの一つが、この宇宙の因果的発展が、物質の間の相互作用を通して「閉じている」という「因果的閉包性」(causal closure)である。

 ここにおける「因果」ということを、日常の生活レベルにおける素朴な「原因」や「結果」の認識と混同してはいけない。日常生活では、たとえば、「あいつが元気がないのは、彼女に振られたからだ」というようなかたちで「原因」や「結果」が語られることもある。しかし、このような場合、「元気がない」という「結果」が、「彼女に振られたから」という「原因」に基づくものかどうか、厳密にはわからない。実際には、お腹の調子が悪くて元気がないのかもしれないし、天気のせいなのかもしれない。

 日常生活における「原因」と「結果」の関係の知覚は、結局のところ顕著な事項の間に推定された結びつきを認めるだけのことであって、そのような曖昧な関係性が心と脳を結びつける第一原理にはなり得ない。

 因果的関係は、また、いわゆる「相関」とも異なる。ここに、「相関」(correlation)とは、一つのイベントともう一つのイベントの間に、ある確率で関係性が結べるということである。そのような「確率的」な関係はアンサンブルを前提にしているため、こちらも、心と脳の間の相関を記述する第一原理にはなり得ない。

 心と脳の結びつきを記述する第一原理になり得るのは、物理学における「ハミルトニアン」のような、あるシステムの時間発展を記述する必要にして十分な因果的連鎖である。この意味において、初めて私たちは「因果的閉包性」を議論できる。素朴心理学(folk psychology)における「原因」と「結果」は、ここで議論する因果的閉包性とは、直接の関係を持たないのである。

Monday 9 January 2012

「再現できればよかった科学」は意識の問題には通用しないかもよ

(似たようなテーマですまん。しかも、この話題は多分基本事項なんだろうとは思う。)

神経系において、ミクロなメカニズムは、ニューロンの相互作用と考えられているが、現在の相互作用の規則は将来、もっと適切な別のもので置き換えられるかもしれない。

しかしながら、相互作用を持つという構造が否定されない限りは、神経系のモデルは行列表現を持つことになってしまうだろう。それが例え状態ベクトルがアナログ量で表されていたとしても、系の相互作用規則が行列表現で書けてしまう事を排除するわけではない。

この事と、我々の意識を生み出しているのは神経系なのだという信念とを組み合わせると、多数のニューロンの相互作用から魔法のように意識が湧いてくると言わざる負えなくなる

有機物を、酸素の中で燃焼させる分子同力学的シミュレーションの計算は可能で、そこから正確な量の二酸化炭素と水蒸気が排出され、燃焼熱が発生することが計算ではじき出されるだろう。

これと同格な意識のシミュレーションを行おうとすると、多くのニューロンの相互作用を計算することで、その計算上の神経系が、意識のある人の脳の出力を全て再現する事ができればよいという事になる。つまり「神経科学的ゾンビを計算によって実現できればよい」というのが、これまでの科学の方法による目標であり到達点となっている。

話は、一旦、横道に逸れるが、状況は、統計力学が生まれる前の物理学の状況に似ている。百年以上も前から、物理学は、「未来は決定していることを認めるか、それともニュートンの運動方程式以外の未知の確率的な法則を受け入れるか」の選択を迫られてきている。

ニュートンの運動方程式は決定論的な方程式であるために、初期状態を全て与えられたら方程式に従って未来が決まる。我々の能力が初期状態を知ることができないとか、計算に要する時間が現実を超えることは無いとか言う事があったとしても、未来が決定していた事を確認できるのを否定できない(=未来が決定している)ということになってしまう。

統計力学以降、量子力学によって、位置と運動量を同時確定的に観測できないことが分かったが、これは、観測値が不確定性を持つ(確率的だ)と言っているのであって、自然界の時間発展が確率的だ(未来が現時点で決定していない)と言っているわけではない(※注1)。シュレディンガー方程式は、決して確率的な時間発展をするわけではなく、決定論的な方程式だからだ。そして、ヒトがなす観測操作であっても、ヒトは原子、分子から作られた自然の一部なのであり、それは、シュレディンガー方程式で記述されるべきだからだ。

初期の成功をおさめた統計力学は、アンサンブル平均が時間平均とが等しくなるという仮定(エルゴード近似)が成り立つ範囲の近似であって、元々のニュートンの運動方程式が現実に計算可能であればこの近似が必要ないと考えられた。実際には、アボガドロ数個の分子の全てに対する方程式は、数が多すぎて現時点において計算可能ではない。(※注2)

ところが、現代においては、アボガドロ数個の方程式の計算は依然無理だとしても、十分に統計性が見えるほどの数の方程式を数値計算によって解くことが可能になった。

重要な点は、その現代においても、統計力学に依らねば例えば相転移現象(例えば、磁石を熱していった時にある温度(キュリー温度)で急に磁石でなくなってしまう現象)等を理解することはできないということだ。

例えば、磁場を(正確には交換相互作用を)及ぼしあう原子同士の運動方程式を、いくら眺めても、キュリー温度が出てくるようなメカニズムは見えてこない。

ところが、エルゴード近似を施して初めて、例えば比熱の発散する温度としてキュリー温度を求めることができる。

エルゴード近似を施した後の統計力学をマクロな方程式と呼べば、このマクロな部分が無くても、ミクロな方程式だけで、現象を再現できる。ところが、マクロな方程式無しでは、ミクロ方程式が膨大な数あって初めて現れてくる特異点(相転移温度)を解析的に予言できない。

以上の類推から、ぽよは、140億個の大脳皮質プライマリーニューロンの相互作用を行列で表現し、計算を忠実に遂行して神経科学的ゾンビという現象を再現することができたとしても、依然として、何故意識が浮かび上がってくるのかを理解できることは無いと思うのだ。

 石川による記事で投げかけられていた問「量から質への転換がおこるだろうか」に関して、膨大な数のミクロ運動方程式による相転移現象のシミュレーションは、まさにこれが起こっていることの一例を提示している。

しかし、我々が必要としているのは、どのようにこの転換が起こっているのかを科学的に理解することであって、シミュレーションで結果を再現することだけではない。シミュレーションの結果を観察することでは、結局、リアルな世界で自然現象を観察した場合と同じ情報しか得られないだろう。

よく言われることだが、科学で重要なのは「再現性」であるという。しかし、意識の問題を理解するために、これまでの科学は、更に、一振りの塩(何らかの変更)を、必要としているのだと思う。

未来の科学に必要となる小さな変更(先入観を捨てる事)とは、一体なんなのだろうか? 

それは、「同時性の破れ」や「不確定性」の受け入れに相当するようなことであるに違いないと、ぽよは考えている。そして、その変更は、それが受け入れられた後では、あまりに当然過ぎて、過去の人々は何故、この変更を受け入れられなかったのか首を傾げるようなものであるに違いない。更に言うなら、適用範囲を現代の科学の守備範囲に絞った場合には、正しく現代科学の結論と同じ結果を出すようなものであるはずだ。

考えてみれば、相転移現象を説明する統計力学も、時間変数の方程式を確率分布に変換する時にエルゴード仮説に基づく「解釈」を加えて近似しているのであって、運動方程式やシュレディンガー方程式から導いているわけではない。

ここで、「解釈」などという呼び方をするのは、その解釈が無くても、運動方程式だけで現象が起こるからだ。この事から類推して心脳問題を考えると、現状は以下のようになりそうだ。だが、ほんとうにそうだろうか?

 「形式的な基本方程式で神経科学的ゾンビを作っても、そこに心が宿ってしまう。しかし科学的理解は謎のままだ。将来、(僅かの)解釈を加えた統計力学に相当する理論によって、心がある状態に対する科学的理解は得られるかもしれない。しかし、依然として形式的な方程式から心の科学的理解が導かれるわけではない。」

少なくとも、「再現できればそれでよい」と言っているだけでは埒があかない事だけは確かだろう。



Tuesday 3 January 2012

意識は行列で表せるか?

心脳問題を扱うにあたって物質である脳の側から記述を始める場合、どのような描像(picture)を持つべきだろうか。たとえば量子力学において、Schrödingerは波動関数の時間発展による記述を試み、Heisenbergは時間発展する演算子の行列形式での表現を探求した。これらを折衷した表示法である相互作用描像もあり、見かけが違ってもこれらはすべて等価な結果を導くので、時と場合に応じて一番便利な記法を用いるべきである。

認識のニューロン原理(Barlow, 1972)に基づくなら、我々の認識の内容はニューロンの発火の特性によって決定され、また、それのみによって説明されねばならない。これを数学的に表すにはどうしたらよいだろうか。

脳内に神経細胞がN個あったとしよう。ある時刻tにそれぞれのニューロンは発火しているかいないかの二値状態しか取らないのでこれを1と0で表そう。N個分のニューロンの状態をすべて観測して順番に並べられたとすると、0/1を成分に持つN次元のベクトルができる。ここで、認識のニューロン原理に立ち戻るなら、認識に関する限りにおいて発火していないニューロンは存在していないのと同じであるから、成分として1を持つ部分のみが認識に寄与することになる。ところで、最初からニューロンが存在しない場合と、ニューロンが存在するのに発火していない場合は、存在論的には明らかに異なるにもかかわらず認識論的には区別する必要がない、あるいは換言すれば、区別できないというのは興味深い性質である。

さて、では成分1を持てば十分かというと実はそう言うわけでもない。認識におけるマッハの原理(Mogi, 1997)によれば、単独で発火するニューロンには意味がない。他のニューロンの発火との関係、つまり、発火がどのように伝播したかが重要である。先に導入したベクトル表記ではこのような発火間の関係性を記述できなかった。そこで記述の次元を上げて行列で表すことを考える。N×N行列において、第(i, j)成分を第i番目のニューロンの発火がその投射先である第j番目のニューロンの発火を引き起こしたときに1、そうでないとき(第i番目ニューロンと第j番目ニューロンのうち少なくともどちらか一方のニューロンが発火しなかったか、またはそもそも直接投射関係になかった場合)に0を取るものとする。

人の脳には約1000億個のニューロンがあると言われている。そうすると、行列の成分の数としては、N×N〜10^11×10^11=10^22個程度の0または1が並んでいることになる。この行列が時間発展するところから意識やその現象的側面であるクオリアが生成することになる。神経回路網の発火パターンが行列で表せることが分かったところで、慧眼な読者ならすでにお気付きの通り、この表現はこの行列を隣接行列として持つグラフと同値である。従って、直観的にもネットワークの表現として極めて妥当(かつ自明?)であることが確認できる。

最後に補足として、行列の第(i, j)成分を1にする基準である第i番目ニューロンが発火してから第j番目ニューロンの発火までにどれくらいの時間遅れを許すかについて敢えて厳密な定義を避けたが、この問題は取りも直さず相互作用同時性(Mogi, 1997)と直結し、物理時間tと固有時τの関係を結ぶことになる。また、クオリアの先験的決定の原理によれば、行列のある状態とあるクオリアとがアプリオリに1対1に対応することになる。その意味で決定論的である。

この先、グラフまたは行列の時間遷移から、いかにして意識が創発するかについて議論を進めよう。意識とはどのような演算なのだろうか。脳内で起きている物理現象が、たかだか1000億×1000億程度の行列が時々刻々状態遷移しているだけであるという描像は新鮮だろうか。それともそれくらいのデータがあれば量が「質」に転化して、クオリアのリアリティが生まれても不思議ではないと思えるだろうか。

石川哲朗

後記1:行列で表現できたのは2ニューロン間の関係を記述したに過ぎないからだと気付いた。3ニューロン間なら3次元の配列になるし、以下同様に…、nニューロン間の関係を一度に記述しようとしたらn次元配列となる。ネットワークモチーフ(Alon, 2007)の考え方を導入して整理すべきかもしれない。

後記2:相互作用同時性によって心理的時間がつぶれるときに、3ニューロン間でi→j→kの順に心理的時間がつぶれるのと、i→k→jの順に心理的時間がつぶれたときのクオリアは等価なのだろうか?ネットワーク上で相互作用同時性がどのように伝播するかは重要な問題である。

「時間」の事が分からないから、自由意志も分からなくなる

「時間」について調べると、そこには難しい言葉が並び、よく分からない概念が語られ、ぽよは、いつも挫折感を味わう。特に自由意思の事を考える時は、「要するにわからんのだと何故言わない!」と叫びたくなる。茂木の言うことも、これと似ていて、たまに分からない。更に言うと、例えば括弧付きの「今」なんて、日常語なので分かりそうな気がして考えてみるのだが、読んでみると、さっぱりわからない。正直、茂木の書く事は、単純頭のぽよには難しすぎる。

そこで、茂木が言っている「今」を、物理とか情報処理とかしか分からない ぽよが、分かる事だけで解読してみようと思う。恐らく間違っていると思うが、こう言った悪あがきをしないと、ついてゆけないので勘弁してほしい。

自由意思が何故「自由」という言葉を冠するかというと、「君は、次に手を挙げるよ」と予想されても、その通りにするかどうかを決めるのは自由、つまり「意思は予想通りにならない」という性質からくる。

しかし、これを認めてしまうと、常に原因と結果の関係(因果関係)を探し求めようとする科学の目的と競合してしまうように見えるし、何よりも、「現段階で未来に何が起こるか決定していない」と言う、未だ科学的に確かめられていないし、論理的にも立証されていない事を根拠なく認める事になってしまう。こう書くと、「未来が決定している等という事は、あるわけがない」という人がいるかもしれないが、我々の直観に反して、現在正しいと信じられている最良の物理理論(量子力学と相対論)は、(その適用範囲内において、)どちらも未来が決定しているかのように記述されているのだ。(※注1)

かくして、意思の自由性と決定論を両立させようとすると、

(1)「予想通りにならない」という自由性が成立するには、「意思が生じる直前の経験Eを基にした予想Cと、続いて起こる意思Mの内容が常に等しくなる(=自由でない)」ということが無ければよいのであって、もっとずっと過去に遡った経験によって決定論的に宿命づけられていたとしても矛盾が生じていない。

つまり、過去全体をPとすると、

因果的にP→E、P→Mではあるけど、E⇒Cであっても、いつもC=Mとは限らない。

(2)決定論的に起こっていることを「自由だ」と感じてしまうような、「自由意志感覚のクオリアを持つのだ」という解釈をしてしまおう。

という説明をしたくなるが、どちらも分かった気がしない。何故なら、(1)については、因果的な結びつき「→」とは何なのかがよく分からない。言い換えれば、因果関係「→」を表すために適切な方程式が無い。(2)については、クオリアと対応する脳活動の内容が明らかになっていない。

ただ、少なくとも、意思Mの自由性を決めているのは、Mを引き起こしている脳活動の時空間的近傍だという事は、この状況から読み取れる。言い換えれば、脳の過去全体Pに渡る経験や、脳全体の活動を含めていないから、この自由性(EとMとの間に因果関係が無いということ)がありうるのだという事だ。もちろん、脳活動を担うニューロンたちは極めて因果的に時間発展している。無理やり解釈すれば、茂木の言う「今」というのは、この「意思Mを引き起こしている脳活動の時空間的近傍」の事かなとも思う。きっと違っているのだろう。

これと同様に、

(A)時空間全体を考えると決定論的なのに、注目している時空点の時空間的近傍を考えると、因果関係が存在しなくなる
(B)微視的近傍では因果的なのに、すこし時空間近傍のサイズを広げると因果関係が存在しなくなる

という状況は、ぽよが知る限り、以下のような物理に存在する。

★一つは、アインシュタイン方程式:
が記述する世界だ。この方程式をコンピューターでシミュレーションしようとすると、(流れない)時間座標と空間座標とで張られる点と点との関係がその座標点毎に場の量で決まっているために、これが時空全体でツジツマのある距離関係(計量と呼ぶ)の分布を探索する羽目になる。
つまり、ある時刻のある場所で測った他の時空点との距離関係が分布しているだけであるので、全体としての時間の発展という概念が見当たらないのだ。時空点と時空点の間の関係は、上の式の未知数である、gμνが局所的に記述しており、このgμνが満たすべき幾何学的法則をGμνが記述している。

だから局所的にある時空点の周りを見回せば、解が時間発展や因果関係を記述していると言えなくもないが、むしろ上のアインシュタイン方程式が表すものは、世界全体の『静止した』決定論的記述なのだ。

★もう一つは、摩擦が考えられなくなるほど微視的世界の粒子の運動の時間発展の法則だ。
微視的世界では、動画を逆再生させたような粒子の動きであっても、これを含むマクロな現象に矛盾を生じさせない事が可能だ。逆回しの運動も、与えられている方程式を満たすからだ。つまり微視的な世界では明らかに時間の方向があり、粒子の初期位置が、微小時間後の粒子の位置を決定づけている。しかし、マクロな現象の時間発展(言い換えれば、マクロな現象の因果関係)とは独立だ。マクロな現象の時間発展を論ずるには、もう一振りの塩が必要なのだ。それは、例えば次のような方程式
のx=0における仮定によって、この点で過去を辿れなくなるような、何通りもの時間発展がありうる(下図)ことからも推測できる。
図の縦軸はx、横軸は時間t、初期値(τ,ε)によって、複数の時間発展が存在する。

この場合の「もう一振りの塩」とは、初期値 (τ,ε)で、僅かな値εを与える時刻τを何時にするかという事だ。この時刻を境にして、系を表す方程式は過去に向かって逆に辿ることができなくなる(過去の記憶が消える)のだ。(※注2)

★更にもう一つは、有名なパイ生地変換の物理だ。パイ生地にビーズを1個だけ入れて、伸ばしては半分に折るという事を繰り返し、このビーズがパイの生地の左にあるか右にあるかを0か1で表す事にする。
パイこね変換の図:のばした時に左にあれば0、右にあれば1とする。

この系では、毎回毎回、直前の過去に向けて方程式を逆に辿ることはできない。つまり、過去の情報は折りたたむたびに失われる。この系で、折るたびに決まる0、1の数を並べたときに現れる数列
01000101111010111011....

が、続けてコイントスした時のコインの裏表に対応させた1と0の現れ方と全く同じ性質を持つということが知られている。それにも関わらず、最初のビーズの位置を無限精度で与えたときのその初期位置を表す数と、上の数列は一対一に対応しているのだ。もちろん、初期位置がランダムであれば、上記の数列もランダムになる。これは、ランダムという意味で、予想がつかないが、それは、初期位置を表す数を知らないからであって、それさえ知っていれば(この系の過去から未来を表す全体を知っていれば)決定している。この例は、
  1. 微視的時間発展においては、未来を予測できるという意味で因果関係を持っている。
  2. その一方で、数十回の折りたたみ後の未来は、殆ど予測できない。
  3. 更に、系全体の過去から未来にわたる決定性(つまり全部の初期情報を与えれば未来が完全に分かる)は保障されている。
このように、決定論的物理現象の中に埋め込まれた形で、非因果的な(予測したとおりにならない)現象が(時空間的な局所系に)存在するということは物理にも存在するのである。

※注1:量子力学も、観測操作自体を波動関数の時間発展で記述されるべきであるとする、より一般的な適用の仕方をすれば、確率解釈の部分が時間発展と独立になってしまうので、そこには波動関数の決定論的時間発展しか存在しない。)
※注2:ここは、少し誤魔化した。ここで言うような、過去の情報の忘却と、エントロピーが増大するような意味の過去の忘却とを同じであるかのように言うのは言い過ぎ。むしろ、この過去情報の忘却は不連続性から出てくるので、次のパイこね変換で失われるような意味の過去情報の忘却に近い。
※注3:ちょっと、投稿ペースが速いが、正月だけネ。春休みまで、しばらくお休みするよ。

Monday 2 January 2012

ベルクソンの「持続」と自由意志

茂木健一郎

 一体、因果的に閉じているにもかかわらず、自由意志が存在するとはどういうことか? この「両立説」の帰趨を明らかにすることは、心脳問題の核心を解き明かすことに等しい。

 自分自身が自由であると感じることも、また一つの「クオリア」である。私たちは、自分がどれくらい「自由」であるか、自らメタ認知を通して把握することができる。脳の前頭前野を中心とするネットワークが、自分自身が置かれた状況と、自分自身が持つ資源を勘案して、今、どれくらい自由に自分が振る舞うことができるか、モニタしているのである。その程度によって、行為の選択肢も変わってくる。

 アンリ・ベルクソンは、意識の中における時間の流れを記述する根本概念として「持続」(duration)を置き、その本質と自由意志とを結びつけた(Henri Bergson. (1889) Time and Free Will: An Essay on the Immediate Data of Consciousness. Essai sur les données immédiates de la conscience. )。ここに、「持続」は時計で測れるような物理的時間ではなく、私たちの主観的経験の中で把握される「時間」の根本的な性質である。


Henri Bergson (1859-1941)

 今日、私たちは「時間」を数直線のような空間的概念の下で把握し、理解しようとする。しかし、「持続」を本質とする時間を、空間的なメタファーで把握することに、ベルクソンは異議を唱えた。そして、「持続」の現象学的本質に向き合わなければ、「自由意志」は成り立たないと主張したのである。

 時間を数直線のような空間的概念においてとらえることの限界は、時空間及びその中でのダイナミクスの幾何学化を推進し、大成功を修めたアルベルト・アインシュタインも認めていた。アインシュタインは、自らの創始した4次元の時空間の中で、「今」(now)が何ら特別な意味も持たないということについて、懸念を表明していたのである。

 私たちの経験に照らして明らかなように、「今」(specious present, William James (1890), The Principles of Psychology, New York: Henry Holt.)は時間の流れの中で特別な意味を持つ。「今」の中で、私たちは判断し、選択し、行動する。意識に直接与えられているものは、常に「今」であり、「過去」や「未来」は、「今」という「持続」の中で立ち上がる志向性を通して、私たちの意識に把握されるに過ぎない。このような、「今」の特別な性質に準拠しなければ、自由意志の本質は扱えない。

 「今」や「持続」の性質については、後に心理的時間の起源を考える際に、より詳細にわたって検討することとしよう。

自由意志の両立説

茂木健一郎

 意識(consciousness)が生まれてきた、進化論的な必然性とは何か? 以下に述べる理由によって、「自由意志」(free will)こそが、意識の進化論的な意義の中心にあると考えられる。

 クオリアや、志向性といった意識の持つ現象学的な性質は、もっとも顕著な属性だとは言えるが、それ自体が進化における直接的な拘束条件とまでは言えない。自由意志が、意識の進化論的な意義において革新的な役割を持つという議論は、意識が「随伴現象」(epiphenomenon)であるという論とは独立である。鍵は、むしろ、私たち生物が置かれた客観的な状況の中にある。

 意識もまた、それが私たちの生物としての振る舞いにかかわる現象である以上、自然淘汰における何らかの適応度(fitness)に貢献するものでなければならない。ここに、適応度は、遺伝子の進化論から見た狭義の立場からは、その個体が残した子孫を指すけれども(Haldane 1924)、実際にはそこに至るさまざまな階層の適応度が存在する。

 生物が、ある環境に置かれたときに、その状況をどれくらい適切に認識し、しなやかに行動できるか。人間におけるような豊かな意識体験を生み出すに至る生物の生活履歴(life history)は、「今、ここ」における行動選択の連続である。その現場における「自由度」が、最終的に適応度に貢献することになる。

 どんな環境に置かれても、いつも同じ行動をする生物は適応度が低い。与えられた環境の下で、さまざまな環境因子を統合、勘案して自らの行動を柔軟に選択できる生物は、適応度が高い。問題は、意識を持つことが、この適応度の進化にどのように資するかという点にある。

 人間の脳を含めた身体の動きは、因果的法則によって決定されている。これが、今日の自然科学がとる基本的な立場である。もちろん、少数自由度の古典力学の範疇で見られる決定論的カオスや、量子力学における不確実性などの留保はあるにせよ、因果的決定論が基本的には成立するという世界観に今のところ揺るぎはない。

 一部の論者(Eccles 1994)は、意識が物理的な存在としての脳をコントロールしているという仮説を提出している。しかし、このような世界像には、エネルギーの保存則や、物理的世界観における基本的な前提である「因果的閉包性」(causal closure)などの点から見た困難があり、広く受け入れられるには至っていない。

 以下では、自由意志(free will)が、因果的平包性や因果的決定論の過程と両立するという両立説(compatibility theory)の下で、意識の機能的意義を検討しよう。両立説は、自由意志の性質に関する現代の「通説」であり、経験的事実との整合性も高い。一方で、両立説をとることは、意識をめぐる難しい問題(hard problem)が存在することを否定するものではない。

 現代的な意味における両立説の淵源は、古代ギリシャのストア派の哲学者たち(ゼノンやセネカなど)、トマス・ホッブズ(1588-1679)、デイヴィッド・ヒューム(1711-1776)、らの論の中に求めることができる。ストア派の哲学者たちは、運命を受け入れる「覚悟」を説く一方で、自由意志に基づく運命の改変の可能性にも言及した。トマス・ホッブズは、1656年に出版されたThe questions concerning liberty, necessity, and chanceの中で、偶然と必然、そして自由の関係について論じた。デイヴィッド・ヒュームは、世の中の一般の事象が法則に従うことを認めた上で、人間の行動が、単なる偶然ではなく、「実行するかそれとも止めるか」の判断にかかわる「必然性」に基づく場合にのみ、それは「自由」と言えるという論を展開したのである。