Monday 2 January 2012

ベルクソンの「持続」と自由意志

茂木健一郎

 一体、因果的に閉じているにもかかわらず、自由意志が存在するとはどういうことか? この「両立説」の帰趨を明らかにすることは、心脳問題の核心を解き明かすことに等しい。

 自分自身が自由であると感じることも、また一つの「クオリア」である。私たちは、自分がどれくらい「自由」であるか、自らメタ認知を通して把握することができる。脳の前頭前野を中心とするネットワークが、自分自身が置かれた状況と、自分自身が持つ資源を勘案して、今、どれくらい自由に自分が振る舞うことができるか、モニタしているのである。その程度によって、行為の選択肢も変わってくる。

 アンリ・ベルクソンは、意識の中における時間の流れを記述する根本概念として「持続」(duration)を置き、その本質と自由意志とを結びつけた(Henri Bergson. (1889) Time and Free Will: An Essay on the Immediate Data of Consciousness. Essai sur les données immédiates de la conscience. )。ここに、「持続」は時計で測れるような物理的時間ではなく、私たちの主観的経験の中で把握される「時間」の根本的な性質である。


Henri Bergson (1859-1941)

 今日、私たちは「時間」を数直線のような空間的概念の下で把握し、理解しようとする。しかし、「持続」を本質とする時間を、空間的なメタファーで把握することに、ベルクソンは異議を唱えた。そして、「持続」の現象学的本質に向き合わなければ、「自由意志」は成り立たないと主張したのである。

 時間を数直線のような空間的概念においてとらえることの限界は、時空間及びその中でのダイナミクスの幾何学化を推進し、大成功を修めたアルベルト・アインシュタインも認めていた。アインシュタインは、自らの創始した4次元の時空間の中で、「今」(now)が何ら特別な意味も持たないということについて、懸念を表明していたのである。

 私たちの経験に照らして明らかなように、「今」(specious present, William James (1890), The Principles of Psychology, New York: Henry Holt.)は時間の流れの中で特別な意味を持つ。「今」の中で、私たちは判断し、選択し、行動する。意識に直接与えられているものは、常に「今」であり、「過去」や「未来」は、「今」という「持続」の中で立ち上がる志向性を通して、私たちの意識に把握されるに過ぎない。このような、「今」の特別な性質に準拠しなければ、自由意志の本質は扱えない。

 「今」や「持続」の性質については、後に心理的時間の起源を考える際に、より詳細にわたって検討することとしよう。

5 comments:

  1. 「今」が間違いなく「今」であると誰が主張できるのだろうか? ある個人が「今」と感じている「時間点」は、あるいは「過去点」もしくは「未来点」かもしれないよ。現在と過去と未来の区別はどれほど堅固なものであるとしても幻想にすぎないとある論者は言った。そもそも意識が時間の流れを本当に知覚できているのかどうかということが問われるべきこと。時間は存在しないものかもしれないのに。だから、意識はやはり幻覚しているのかもしれない。

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  2. 数直線のような空間的概念としての時間と、持続としての時間の違いは何か、考えてみました。

    ひとつには、生命が主体的に参加しているかどうか、ということなのかな。ジェームズの言った、意識の流れ stream of consciousness は、鴨長明の方丈記の冒頭の、

    行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。

    に置き換えてもおもしろいんじゃないかと思いました。
    まさに specious present ですよね。

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  3. 時の流れは「未来」を近づけ「今」にして、やがて「過去」に遠ざけていくように思います。
    茂木さんの言うように、「今」の中で、私たちは判断し、選択し、行動しています。
    そしてその際に、「未来」を予測することや、「過去」を想起することが不可欠だと思います。
    そう考えると、「過去」・「未来」を志向することのメリットとして、大切な「今」に貢献すること、があげられるように思います。

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  5. 「「過去」や「未来」は、「今」という「持続」の中で立ち上がる志向性を通して、私たちの意識に把握されるに過ぎない。」という「今」の特異性は、「「他者」や「世界」は、「私」の意識に把握されるに過ぎない」という「私」の特異性と似てる気がしました。 永井均さんは『私、今、そして神』という本で、「「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないか」と論じていました(Cf. 「独今論」http://p.tl/UCaW)。

    「持続」はまだ勉強中ですが、時間における「持続(自由)/空間(決定論)」、「流れつつある/流れさった時間」、という二項のギャップは、ゼノンのパラドックス「飛んでいる矢は動かない」における、「運動/止まった矢」、あるいは、「砂山/砂粒」、「連続/離散(記号化)」、「内包/外延」、「質/量」、「意識/多数の神経細胞」...等のギャップと似ているかも、と妄想しました。。ではなぜ前者だと自由なのかまだよく分かっていないのでもう少し考えてみます。

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