Tuesday 3 January 2012

「時間」の事が分からないから、自由意志も分からなくなる

「時間」について調べると、そこには難しい言葉が並び、よく分からない概念が語られ、ぽよは、いつも挫折感を味わう。特に自由意思の事を考える時は、「要するにわからんのだと何故言わない!」と叫びたくなる。茂木の言うことも、これと似ていて、たまに分からない。更に言うと、例えば括弧付きの「今」なんて、日常語なので分かりそうな気がして考えてみるのだが、読んでみると、さっぱりわからない。正直、茂木の書く事は、単純頭のぽよには難しすぎる。

そこで、茂木が言っている「今」を、物理とか情報処理とかしか分からない ぽよが、分かる事だけで解読してみようと思う。恐らく間違っていると思うが、こう言った悪あがきをしないと、ついてゆけないので勘弁してほしい。

自由意思が何故「自由」という言葉を冠するかというと、「君は、次に手を挙げるよ」と予想されても、その通りにするかどうかを決めるのは自由、つまり「意思は予想通りにならない」という性質からくる。

しかし、これを認めてしまうと、常に原因と結果の関係(因果関係)を探し求めようとする科学の目的と競合してしまうように見えるし、何よりも、「現段階で未来に何が起こるか決定していない」と言う、未だ科学的に確かめられていないし、論理的にも立証されていない事を根拠なく認める事になってしまう。こう書くと、「未来が決定している等という事は、あるわけがない」という人がいるかもしれないが、我々の直観に反して、現在正しいと信じられている最良の物理理論(量子力学と相対論)は、(その適用範囲内において、)どちらも未来が決定しているかのように記述されているのだ。(※注1)

かくして、意思の自由性と決定論を両立させようとすると、

(1)「予想通りにならない」という自由性が成立するには、「意思が生じる直前の経験Eを基にした予想Cと、続いて起こる意思Mの内容が常に等しくなる(=自由でない)」ということが無ければよいのであって、もっとずっと過去に遡った経験によって決定論的に宿命づけられていたとしても矛盾が生じていない。

つまり、過去全体をPとすると、

因果的にP→E、P→Mではあるけど、E⇒Cであっても、いつもC=Mとは限らない。

(2)決定論的に起こっていることを「自由だ」と感じてしまうような、「自由意志感覚のクオリアを持つのだ」という解釈をしてしまおう。

という説明をしたくなるが、どちらも分かった気がしない。何故なら、(1)については、因果的な結びつき「→」とは何なのかがよく分からない。言い換えれば、因果関係「→」を表すために適切な方程式が無い。(2)については、クオリアと対応する脳活動の内容が明らかになっていない。

ただ、少なくとも、意思Mの自由性を決めているのは、Mを引き起こしている脳活動の時空間的近傍だという事は、この状況から読み取れる。言い換えれば、脳の過去全体Pに渡る経験や、脳全体の活動を含めていないから、この自由性(EとMとの間に因果関係が無いということ)がありうるのだという事だ。もちろん、脳活動を担うニューロンたちは極めて因果的に時間発展している。無理やり解釈すれば、茂木の言う「今」というのは、この「意思Mを引き起こしている脳活動の時空間的近傍」の事かなとも思う。きっと違っているのだろう。

これと同様に、

(A)時空間全体を考えると決定論的なのに、注目している時空点の時空間的近傍を考えると、因果関係が存在しなくなる
(B)微視的近傍では因果的なのに、すこし時空間近傍のサイズを広げると因果関係が存在しなくなる

という状況は、ぽよが知る限り、以下のような物理に存在する。

★一つは、アインシュタイン方程式:
が記述する世界だ。この方程式をコンピューターでシミュレーションしようとすると、(流れない)時間座標と空間座標とで張られる点と点との関係がその座標点毎に場の量で決まっているために、これが時空全体でツジツマのある距離関係(計量と呼ぶ)の分布を探索する羽目になる。
つまり、ある時刻のある場所で測った他の時空点との距離関係が分布しているだけであるので、全体としての時間の発展という概念が見当たらないのだ。時空点と時空点の間の関係は、上の式の未知数である、gμνが局所的に記述しており、このgμνが満たすべき幾何学的法則をGμνが記述している。

だから局所的にある時空点の周りを見回せば、解が時間発展や因果関係を記述していると言えなくもないが、むしろ上のアインシュタイン方程式が表すものは、世界全体の『静止した』決定論的記述なのだ。

★もう一つは、摩擦が考えられなくなるほど微視的世界の粒子の運動の時間発展の法則だ。
微視的世界では、動画を逆再生させたような粒子の動きであっても、これを含むマクロな現象に矛盾を生じさせない事が可能だ。逆回しの運動も、与えられている方程式を満たすからだ。つまり微視的な世界では明らかに時間の方向があり、粒子の初期位置が、微小時間後の粒子の位置を決定づけている。しかし、マクロな現象の時間発展(言い換えれば、マクロな現象の因果関係)とは独立だ。マクロな現象の時間発展を論ずるには、もう一振りの塩が必要なのだ。それは、例えば次のような方程式
のx=0における仮定によって、この点で過去を辿れなくなるような、何通りもの時間発展がありうる(下図)ことからも推測できる。
図の縦軸はx、横軸は時間t、初期値(τ,ε)によって、複数の時間発展が存在する。

この場合の「もう一振りの塩」とは、初期値 (τ,ε)で、僅かな値εを与える時刻τを何時にするかという事だ。この時刻を境にして、系を表す方程式は過去に向かって逆に辿ることができなくなる(過去の記憶が消える)のだ。(※注2)

★更にもう一つは、有名なパイ生地変換の物理だ。パイ生地にビーズを1個だけ入れて、伸ばしては半分に折るという事を繰り返し、このビーズがパイの生地の左にあるか右にあるかを0か1で表す事にする。
パイこね変換の図:のばした時に左にあれば0、右にあれば1とする。

この系では、毎回毎回、直前の過去に向けて方程式を逆に辿ることはできない。つまり、過去の情報は折りたたむたびに失われる。この系で、折るたびに決まる0、1の数を並べたときに現れる数列
01000101111010111011....

が、続けてコイントスした時のコインの裏表に対応させた1と0の現れ方と全く同じ性質を持つということが知られている。それにも関わらず、最初のビーズの位置を無限精度で与えたときのその初期位置を表す数と、上の数列は一対一に対応しているのだ。もちろん、初期位置がランダムであれば、上記の数列もランダムになる。これは、ランダムという意味で、予想がつかないが、それは、初期位置を表す数を知らないからであって、それさえ知っていれば(この系の過去から未来を表す全体を知っていれば)決定している。この例は、
  1. 微視的時間発展においては、未来を予測できるという意味で因果関係を持っている。
  2. その一方で、数十回の折りたたみ後の未来は、殆ど予測できない。
  3. 更に、系全体の過去から未来にわたる決定性(つまり全部の初期情報を与えれば未来が完全に分かる)は保障されている。
このように、決定論的物理現象の中に埋め込まれた形で、非因果的な(予測したとおりにならない)現象が(時空間的な局所系に)存在するということは物理にも存在するのである。

※注1:量子力学も、観測操作自体を波動関数の時間発展で記述されるべきであるとする、より一般的な適用の仕方をすれば、確率解釈の部分が時間発展と独立になってしまうので、そこには波動関数の決定論的時間発展しか存在しない。)
※注2:ここは、少し誤魔化した。ここで言うような、過去の情報の忘却と、エントロピーが増大するような意味の過去の忘却とを同じであるかのように言うのは言い過ぎ。むしろ、この過去情報の忘却は不連続性から出てくるので、次のパイこね変換で失われるような意味の過去情報の忘却に近い。
※注3:ちょっと、投稿ペースが速いが、正月だけネ。春休みまで、しばらくお休みするよ。

7 comments:

  1. 決定論が完全に未来を決定するという意味で自由を束縛するのは神の視点やラプラスの魔の立場にある場合であって、有限の存在(有限の精度でしか初期状態を知ることが出来なかったり、有限の計算資源しか持たない者)にとって決定論であってもカオスの例のように未来を無限の精度で予測できるわけではないので自由意志の余地があるのでは? というようなことを漠然と考えていたのですが、デネットも『自由は進化する』の中でこれに似た主張をしているらしいと知って、同じようなことを考える人はいるものだなと。結局のところ、脳活動とクオリアがどのように対応付けられるかについての自然法則が分からないと、「自由」の意味も曖昧模糊で分からないままだというのは至極最もだと思われます。

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  2. Poyogが書いたことの中で、自由意志は、つまり自由意志のクオリアを持つことである、ということに近い仮説を現時点ではぼくは持っています。

    いずれにせよ、時空間的に「今、ここ」の近傍で決定されることだと考えます。

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  3. 敢えて言うと2番目の考えから何か出てこないかなと思っています。
    意識するとき、各要素(エピソード記憶)はそれぞれ決定論に従って想起(連想)されているが、(計算機的に考えると)無数の要素からどれが閾値を超えて意識されるかは予測できない(n × nの組合せが膨大に有り、またそれぞれが微妙な電気(化学?)信号によっている)。
    一方、本人から見ると、想起される場合の要因となるのは過去の経験であり、本人にとっては[これだけの(印象深い)経験が有るのだからそのように意識しても当然]と理解し、必ずしも決定論にしばられてはいない(選択の自由は残っている)と感じているように思う。

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  5. こう言う考え方はどうかな?。一つの線状の時間軸(じく)に、垂直に円盤がついている。円盤は時間と共に回転して、その端を、意識上の時間軸(じく)と捉え、それを俯瞰する事により、時間軸(じく)が認識される。(さらに入れ子も考えられる。)

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  6. こう言う考え方はどうかな?。一つの線状の時間軸(じく)に、垂直に円盤がついている。円盤は時間と共に回転(てん)して、その端を、意識上の時間軸(じく)と捉え、それを俯瞰する事により、時間軸(じく)が認識される。(さらに入れ子も考えられる。)

    (すみません、カッコ内は、漢字が表示できないため、ひらがなで付け足しています。)

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  7. K-taisuke氏のcomment に触発されて、少し。
    人の意識は身体機能を果たす脳内のみに留まっているのではなく、常にはみだしているものであると認識してきました。少なくとも私たちが所属している銀河空間の閾までは意識は常に拡散しているものであると認識しております。そういう意味で、今は現在、過去、未来を常に同時に包括しえているものであると考えていますが・・・。

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